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魏伝


張燕 飛燕ちょうえん ひえん

姓名張燕
飛燕
生没年生没年不詳
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評賊の頭領から将軍に成り上がった人物
主な関連人物 曹操 
関連年表 185年 平難中郎将・領河北諸山谷事となる
205年 平北将軍・安国亭侯となる

略歴

張燕、字を飛燕といい、常山郡真定県の人である。本姓は褚といった。子は張方、孫は張融、曾孫は張林らがいる。

184年、黄巾の乱が起きたとき、褚燕は無頼の若者を集めて盗賊団を結成した。三沢地域を根城として各地を攻め荒らし、郷里の真定県に還ってきた時には一万余人の衆を集めていた。

博陵郡の張牛角もまた徒党を集めて挙兵、自ら将兵従事としていたが、褚燕と合流した。褚燕は張牛角を頭目に推し立てて、一緒に癭陶を攻撃した。この戦いで張牛角は矢にあたって重傷を負ってしまった。臨終に際して仲間に「必ず褚燕を頭目にせよ」と告げた。張牛角が死ぬと仲間は褚燕を頭に奉じた。そのとき、褚燕は姓を張に改めた。

185年、人数は次第に増えて、常山・趙郡・中山・上党・河内の諸山谷の賊たちと誼を通じた。その中の小頭目らは手勢を率いて張燕に付き従ったので、ついに軍勢は百万に達した。彼らは河内郡朝歌県西北の黒山一円を根拠地とし、自分たちの集団を黒山と号した。

張燕は都に使者を派遣して降伏を請うて認められ、平難中郎将・領河北諸山谷事に任じられ、孝廉・計吏を推挙する資格を与えられた。

190年、董卓討伐の義軍が決起すると、張燕はその軍を率いて彼らと手を結んだ。

193年、袁紹と公孫瓚が冀州の領有を争ったとき、張燕は公孫瓚に味方して袁紹と戦って敗れ、これをきっかけに、軍勢もだんだん離散していった。

205年、曹操が袁譚を討ち、袁煕・袁尚を遼西に追い払って冀州を平定すると、張燕は十余万人を率いて曹操に降伏した。張燕は平北将軍に任命され、ギョウに赴いて安国亭侯に封じられ、食邑五百戸を与えられた。

張燕が亡くなると、子の張方が後を継いだ。


逸話

『九州春秋』にいう。張角が反乱を起こすと、黒山・白波・黄龍・左校・牛角・五鹿・羝根・苦蝤・劉平・平漢・大洪・司隷・縁城・羅市・雷公・浮雲・飛燕・白爵・楊鳳・于毒らもそれぞれ兵をあげ、多いものはその数二、三万、少ないものでも数千を下らなかった。霊帝は討伐することができなかったので、使者を派遣して楊鳳に黒山校尉の官面を授け、諸山賊を取り締まらせ、孝廉と計吏を推薦する権利を与えた。その後、賊は一面に広がり、もう数えきれぬほどになった。

『典略』にいう。黒山・黄巾の頭目たちはもともと高官の出ではなく、自分勝手に号や字をつけていた。たとえば、白馬にのっている者を超白騎とよび、敏捷な者を趙飛燕とよび、声の大きな者を張雷公とよび、鬚が豊かな者は于羝根と自称し、目の大きな者は李大目と自称したのだった。

張璠の『漢紀』にいう。その他、左校・郭大賢・左髭丈八の三つの徒党があった。

陸機の『晋恵定起居注』にいう。門下通事令史の張林は、張飛燕の曾孫である。張林は趙王司馬倫とともに反乱をおこし、一年たたぬうちに、尚書令・衛将軍にまで登り、郡公にとりたてられたが、つづいて趙王倫に殺害された。


評価

張燕は剽悍敏捷だったので、軍中は彼を飛燕と呼んでいた。