三国志による三国志好きのための三国志総合情報サイト

登録人物伝 326 名 | 30人が閲覧中

三国志.jp[三国志総合情報サイト]
月間キーワード 4月の出来事
曹操と劉備の英雄論

三国志入門


二十九章:陳倉城攻略

蜀軍は街亭で敗れ漢中にまだ軍を駐屯させておりました。つまり再び北伐を興すことを意味していたのです。

魏も対峙するために、諸葛亮の進行ルートを予測し、司馬懿は曹真に進言して陳倉(ちんそう)に城を築きました。そしてこの城の守りをカク昭、王生らに付かせていたのです。

その頃、諸葛亮は軍をまとめて北伐の準備の最中、五虎大将軍の最後の一人・趙雲が病死してしまうのでした。享年70歳を越えていたとされております。失意の中、諸葛亮は北伐を興し、司馬懿の予測通りに陳倉を目指していました。

諸葛亮は頑固な城があるのに驚き、すぐに密偵を放ってカク昭が守っていることを調べて、彼に降伏を勧めます。しかし断固死守する構えで対立します。

まず諸葛亮は雲梯(うんてい)を使って高い位置から矢を浴びせようとしますが、火矢で破壊されます。次に衝車(しょうしゃ)を使って城壁を梯子で繋ぎ蜀兵がよじ登ろうとしますが、これに対して投石で撃退します。更に坑道(こうどう)を掘り直接城内に侵入を試みますが、坑道に大量の水を流し込み、またもや蜀軍は敗れるのでした。

諸葛亮自身、指揮をとって生涯初めて敗れた戦いでもあったのです。これが有名な陳倉の戦いです。

陳倉城攻略を諦め、別のルートで進行を開始しますが、魏は猛将で知られる王双(おうそう)を先鋒に攻撃をしかけました。蜀の張翼らが敗走し、一進一退を繰り返し膠着状態となるのでした。

蜀魏が争う中、呉では陸遜が魏へ攻め込みました。すると曹休が対峙して構えますが、呉の周魴(しゅうほう)が裏切り、曹休の元へ逃げ込みました。これは呉の策略で、曹休を誘き寄せて挟撃するために、周魴を使って曹休を信用させるというものでした。曹休は周魴が髪を切って自分の疑いを晴らし、見事曹休を欺かせたのです。陸遜、諸葛瑾、徐盛らが一気に曹休軍を壊滅させ、大勝利を収めたのです。(石亭の戦い)

蜀では諸葛亮が魏の守りに悩まされる中、突然の幸運が舞い降りるのでした。陳倉城を守っていたカク昭が重病だということを知り、急いで全軍をもって攻め込むことになります。

魏の王双は蜀軍の撤退を好機として追いかけますが、王双は蜀の伏兵にはまり、魏延に討たれます。更に陳倉城を攻め込み、重病で思うように動けずカク昭は憤死し、蜀軍は陳倉城を制圧するのでした。

こうして蜀軍は武都(ぶと)・陰平(いんぺい)を掌握し、魏の曹真を焦らせるのでした。