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孫策が小覇王として轟かす

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三十章:孫権帝位に就く

魏の曹真は病に伏せってしまい、悪化を辿る一方でした。それに代わって司馬懿が軍を率いて蜀と対峙することになります。

諸葛亮は司馬懿と正面衝突を試みました。また各将らに戦死を覚悟するように命じるのです。これには諸葛亮の策があり、姜維と廖化に策が記された袋を渡し、軍が劣勢になったら袋を空けるよう命令し兵を潜ませたのです。

蜀の魏延、陳式、張嶷、張翼らは死を覚悟して司馬懿の大軍に衝突したのです。すると司馬懿は軍を二手に分けて挟撃し、蜀軍は全滅の危機に立たされました。蜀軍劣勢の中、姜維は諸葛亮の策を思い出し袋を開けました。

そこに記されていたのは、「敵の本陣へ一気に駆け込み占拠せよ」とのことだったのです。姜維、廖化は急いで敵の本陣を目指しました。司馬懿軍は勝利目前の中、斥候(せっこう)の知らせにより、背後に蜀軍がいることを知ります。

司馬懿は本陣を狙われると悟り、急いで引き返しました。すると死を覚悟した蜀軍は、諸葛亮の策が的中したと喜び勇み、撤退する司馬懿軍を追撃して大打撃を与えることに成功します。

しかし、司馬懿は急いで本陣へ戻ることになり陣を堅く守り、出撃しようとしなかったのでした。あと一歩のところで魏は本陣を奪われ長安を占拠されるところだったのです。司馬懿は諸葛亮の大胆な策に恐ろしく、ひたすら守ることが精一杯でした。

こうしている間、蜀軍の兵糧が底をついてしまい、大勝利の中で蜀軍は撤退し漢中へ引き返しました。更に陳倉城を破壊して再び守らせないように計らったのです。なお演義では、この戦いで張飛の子・張苞が敵軍の迎撃中に落馬して重症をおい、その傷がもとで死去します。

諸葛亮帰国後、呉の使者が訪れ孫権が帝位に就くことを認可して欲しい要請があったのです。両国の同盟を維持するためにも認可する必要があり、孫権は帝位に就いて呉を建国します。

ここではじめて三国ぞれぞれが皇帝を擁して鼎立することになったのでした。

演義では、帝位に就いた孫権を祝うために、蜀の費イが呉へ伺いました。祝宴の中、孫権は費イに蜀軍の情勢や人材について聞くと、「先手の将として魏延は反骨の将、参謀の楊儀は技量の足らない人物」として見抜き、蜀の人材不足を笑うエピソードがあります。