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三十二章:五丈原への道

蜀軍の第四次北伐が開始され、司馬懿を誘き寄せて討つ作戦に出るのでした。

しかし司馬懿は一向に出向く気配がなく、魏の将らは司馬懿が臆病になってしまったのではないかと疑うのでした。司馬懿は勝つためには陣を堅く守り、蜀軍の兵糧が尽きるのをひたすら待っているのです。

そんな中、魏の古参で名将・張コウ(字を儁乂)は蜀軍と戦う提案を何度も司馬懿に訴えたのでした。張コウはかつて、張飛と互角に渡りその勇猛ぶりは天下に届いており、曹操から絶大な信頼を得ていた将なのです。

司馬懿はそんな大切な将だからこそ、あえて戦死させたくはないと配慮しますが、蜀軍の様子を伺った斥候によると、兵糧問題で退却の準備をしているとの報を受けます。

敵が退却するこの機会こそが勝機であるとし、司馬懿は重い腰を上げて張コウに先鋒を命じて打って出るのでした。まさしく、蜀軍は撤退をしていたのです。司馬懿は張コウに深追いしてはいけないと肝に銘じたのですが、挑発に載せられて剣閣(けんかく)まで追ってしまい、諸葛亮の伏兵に遭って大量の弓により戦死するのでした。

正史によるとこの事実は逆で、張コウが深追いを諌めるのですが、司馬懿の命令により剣閣まで攻めることになったのです。

魏の張コウを討ったのは蜀にとっても大きく、第五次北伐を開始します。なお、その北伐の準備支度をしていた関羽の次男・関興が病死するのでした。

この北伐で蜀軍は食料問題を解決するために、屯田を設けて稲などを狩り、木牛流馬(もくぎゅうりゅうば)という輸送用の荷馬車を作り長期戦に持ち込むことに成功します。司馬懿は一切の挑発には乗らず、逆に諸葛亮の激務な日々を探って、命数を計っていました。

当然、司馬懿とすれば諸葛亮のいない蜀軍は恐ろしくもなかったのです。

しかし、諸葛亮は司馬懿を油断させるために、蜀軍内の士気が低下していると見せかけます。奇襲をかけられれば蜀軍は壊滅すると思わせるためでした。魏の将兵らはこの機会を逃してはいけないと司馬懿に訴えました。

いままでの敗戦は、蜀軍は撤退をする素振りで我々を誘き寄せて勝利を得ているので、今回は敵が駐屯していることで状況が違うと指摘するのでした。司馬懿は今度こそ蜀軍を一網打尽にしようと全軍出撃を命じました。

司馬懿軍は魏延軍が敗走する方向へ追い込み、今度こそという気持ちで攻め込みました。しかし、これも諸葛亮の罠で、司馬懿軍の退路を投石で立たれて身動きできないようにします。更に周りは崖絶壁の森林、ここで火計を使って司馬懿軍を火の海にしたのです。

司馬懿は死を覚悟し、改めて諸葛亮の怖さを知りました。

その時、天運は司馬懿にあったのです。突然の豪雨が降り注ぎ、火計による全滅を免れました。司馬懿は後続の軍に助けられ退却するのです。演義では、反骨の相である魏延を司馬懿といっしょに殺そうとして、魏延はそれに激怒して諸葛亮を恨むようになったのです。

あと一歩で司馬懿を討つことができず、諸葛亮は天を仰ぐのでした。更に、同盟国の呉が合肥へ攻め込む共同作戦を実行したのですが、呉の諸葛瑾が曹叡、満寵らに壊滅してしまうのです。

これら悲報に諸葛亮は長年の激務によって病気を発し、倒れてしまうのでした。

諸葛亮は自分の死期を悟ったかのように焦りを隠せず、長安への最短距離である五丈原(ごじょうげん)へと進むのです。