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後漢伝


蔡邕 伯喈さいよう はくかい

姓名蔡邕
伯喈
生没年132年 - 192年
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評博識で文芸を著し、董卓の死によって投獄された人物
主な関連人物 董卓 王允 
関連年表 170年 郎中となる
189年 侍中となる
190年 左中郎将となる

略歴

蔡邕は字を伯喈といい、陳留郡圉県の人である。子は蔡琰、従弟は蔡谷、外孫は羊祜、羊徽瑜らがいる。

郡の著姓の子だった。若いころ、太傅の胡廣に師事した。辞章・数術を好み、また音律をよく解した。

170年、司徒橋玄の府にまねかれ、甚だ敬待された。郎中として東観で書物を校閲し、やがて議郎に還った。

彼は経書の文字が時を経る間に、転写などによって誤謬が生じ、後学の人を誤らせるのを恐れた。そこで馬日磾ら数人とともに霊帝に願い出て、経書の文字を正定する許可を得た。蔡邕自ら隷書でこれを書き、石工に刻ませた。183年に完成し、洛陽の太学の門前にこの石碑を立てた。これが「熹平石経」と称されるものであった。後漢になって古文経学が盛んになり、今文との比較研究が行われ、諸儒がそれぞれ異説を唱えた際、熹平石経が彼らの準拠となった。清朝末期の光緒4年以来、洛陽の故趾から、断片が相次いで出土した。石経が立てられた当時、この碑を見ようとしたり、書写しようとする儒者たちの車が、一日千乗余りにも及んだと伝えられた。

178年、蔡邕は官の網紀粛正・時世の風潮の匡正の必要を上奏したため、司徒劉郃・中常侍程曠・将作大匠陽球らに憎まれ、讒言に遭って処刑されることになった。幸いに善良な宦臣呂強が無実を訴えて赦免を請うたので、死一等を減じて家族とともに朔方郡にうつされることになった。

陽球は刺客数人を送り、途中で蔡邕を殺させようとしたが、彼らは蔡邕の義に感じて手を下さなかった。次いで陽球は護送役人に賄賂を渡して蔡邕を毒殺させようとすると、役人が蔡邕にこれを告げて警戒させた。翌年、大赦があって本郡に還ることになった。すると今度は五原太守王智に讒言されたため、遠く呉郡・会稽郡に難を避け、泰山郡の名族羊氏に身を寄せて十余年を経た。

189年、霊帝が崩御し、洛陽に入った董卓が朝廷の権力を握って司空となった。蔡邕は彼にまねかれたが、病と称して応じなかった。董卓は、来ないなら一度皆殺しにするまでだと激怒し、司空府に出頭するよう、州郡に厳命した。蔡邕が已むを得ず出向くと董卓は彼を暑く敬い、三日間に次々に昇進させ、侍中に任命した。

190年、董卓が遷都を強行した。蔡邕は左中郎将に任じられ、献帝に随徒して長安に赴いた。蔡邕は董卓の舵を取って暴走を食い止めようとしたが、迎えが難しかった。彼は従弟蔡谷に「兗州に逃れようと思うが遠くて到達できない。一先は山東に行って、機会を待とうと思うが、どうだろうか」と問うた。蔡谷は「君は常人と異なる風格があって、外に出ると人々が集まってきます。出立してもこれを匿しとおすことは出来ないでしょう」と答えたため、そのまま長安に留まった。

192年、司徒王允が呂布と謀って董卓の誅殺に成功した。その時、蔡邕は王允と同座していた。董卓の死を聞いて、蔡邕は思わず嘆声を漏らした。これは董卓の死を惜しんだのではなく、彼の暴逆を匡正できなかった自分に対するものだった。しかし王允はそう受け取らず、太尉の馬日磾をはじめとして士大夫の多くが諌めたが、ただちに逮捕して投獄した。

その後、王允が悔いて取り下げようとしたが間に合わず、蔡邕は哀れにも処刑された。享年61。

彼の死を聞いた官僚・儒者たちは、涙を流して惜しんだ。


評価

蔡邕の文芸は、詩・賦・碑・誄・銘・贊・連珠・箴・吊・論議に及び、《独断》・《勧学》・《釈誨》・《敘楽》・《女訓》・《篆芸》といった著作が知られる。他に祝文・章表・書記など、およそ104篇が世に伝えられたと『後漢書』蔡邕伝は記す。蔡邕が収集した漢史の史料は、李傕の乱によって多くが失われた。元々は東観において、盧植・馬日磾らと共に行われていたこの『漢記』の撰補は、このような戦乱と関係者の死去などのために中断されたが、建安年間に入って楊彪の手により最後の編纂が行われ、『東観漢記』として知られる事になった。

後漢末の文化人として有名な阮瑀・王粲は彼の門下生である。