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姓名 | 臧洪 |
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字 | 子源 |
生没年 | ? - 196年 |
所属 | 後漢 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 節義を守って叛乱を起こし、道義を最期まで貫いた人物 |
主な関連人物 | 袁紹 張超 |
関連年表 |
189年 功曹となる 191年 東郡太守となる |
臧洪、字を子源といい、広陵郡射陽県の人である。父は臧旻がいる。
父の臧旻は、匈奴中郎将、中山太守、太原太守を歴任したが、各任地において名声をあげた。
孝廉に推挙され、郎となった。当時、三署の郎から選んで、県長を任命するのが例であり、趙昱、劉繇、王朗らとともに県長となり、臧洪を即丘県の長に任命した。
霊帝の末期、官位を捨てて帰郷したところで、広陵太守の張超が、招請して臧洪を功曹とした。
董卓が少帝を殺害し、社稷を危機におとしいれんとはかったとき、臧洪は張超にいった、「殿は代々ご恩をお受けし、ご兄弟そろって大郡を治めておられます。ただいま王室は危機にし瀕しており、賊臣の首はまだ獄門にかけられてはおりません。いまこそ、天下の烈々たる正義の士はご恩に報い命をささげる時でございます。いま、郡の境内はまだ安泰であり、官民ととも豊かに富んでおりますゆえ、もし太鼓をうち鳴らして招集をかければ、二万の軍勢を手に入れることができましょう。この軍勢をもって、国賊を誅殺し、天下のために口火を切るこそ、偉大なる正義と申せます。」張超はその発言をもっともだと思い、臧洪とともに西に向かって陳留に到達し、兄の張邈と会見して相談をもちかけた。
張邈のほうもかねてからその気があったので、酸棗に結集したときに、張超に向かっていた、「おまえは郡守であるのに、政治・教化、刑罰・恩賞をおまえ自身で行なわず、ともすれば臧洪のまかせているという噂だが、臧洪とはどんな人物だね。」張超はいった、「臧洪の才能と知略は私よりまさっており、私は彼をひじょうにかわいがっているのです。天下の奇士といえましょう。」張邈はさっそく臧洪を引見し、彼と語りあって、たいへんすぐれていると考えた。
兗州刺史の劉岱、豫州刺史の孔伷らは、みな臧洪と親しい間柄だった。そこで壇を築いて、誓約を行なおうとしたとき、州や郡は互いに譲りあって、あえてその役を引き受けようとせず、そろって臧洪を推薦した。臧洪はそこで壇に上がり、皿を手に取り血をすすって、誓いを立てていった、「漢の王室は不幸にみまわれ、天下統治の大権を失い、賊臣董卓が間隙につけこんでほしいままに悪行を行ない、天子危害を加えて、人民を虐待しているいま、国家が破滅し、天下が顛覆することが、ひじょうに懸念されている。袞州刺史の劉岱、豫州刺史の孔伷、陳留太守の張邈、東郡太守の橋瑁、広陵太守の張超らは、正義の兵を糾合し、うちそろって困難に立ち向かわんとしている。およそ、われらは盟約を結び、心を一つにし力をあわせ臣下としての忠節をささげ、首を失い頭をおとすとも、必ず二心をもつことはないであろう。この盟約にそむきものがあれば、その生命を奪い、子孫をも絶命させることであろう。天の神よ地の神よ、皇室のご先祖のみ霊よ、どうかご照覧たまわらんことを。」臧洪の言葉の調子は激情的にたかまり、涙がとめどなく流れおちた。その言葉を聞いていたものは、一兵卒・雑役夫といえども、みな激しく感情をたかぶらせ、誰もが忠節をささげんと考えたのだった。
しばらくして、諸軍のうちには率先して進撃しようとするものがないうえに、食糧が底を突いたために軍勢は解散した。
張超は、臧洪を大司馬の劉虞のもとに派遣して相談をさせたが、たまたま公孫瓚の戦難にぶつかり、河間まで来たときには、幽州を冀州が交戦しているところに出くわしたため、使命を果たせなかった。しかしながら、袁紹は臧洪と会見して、やはり彼を評価して尊重し、友好関係を結んだのだった。折しも青州刺史の焦和がなくなったので、袁紹は臧洪に青州を治めさせ、その軍隊を鎮撫させた。臧洪が青州に在任していた二年の間に、盗賊どもは駆逐された。袁紹は彼の能力に感嘆して、東郡太守に転任させ、東武陽に住まわせた。
曹操が雍丘にいる張超を包囲した際、張超はいった、「臧洪だけが頼みだ、きっとわしを救いにきてくれるだろう。」人々は、袁紹と曹操はまさに友好関係にあるうえに、臧洪は袁紹によって取りたてられたのだから、両者の友好をそこない、災難を招いてまで、遠路はるばるここへやってくるはずがない、と主張した。張超はいった、「子源は天子の義士であり、あくまで最初にひきたててくれた者を裏切らない人物である。ただ足どめをされてまにあわない懸念があるだけだ。」臧洪は包囲の知らせを聞くと、果たせるかな、裸足で飛び出して号泣しながら、配下の兵を勢ぞろいさせると同時に袁紹に兵馬を貸してほしいと頼み、張超救援に赴きたいと願い出たが、袁紹はあくまでも許可しなかった。その結果、張超は一族全滅した。臧洪はこのことから袁紹に対して怨恨を抱くようになり、袁紹は臧洪と同郷の陳琳に臧洪あてに書簡を書かせ、利害について教えさとし、恩義にそむいたと非難した。
臧洪の返書は以下のごとくだった。
「ごぶさたを続けてはおりますが、寝てもさめても忘れたことはありません。幸いなことに、互いの距離はほんのわずかにすぎません。しかしながら、生き方に対する基本的な態度を異にしておりまして、相まみえることのかなわぬのが、痛恨の至り、気にかけないではいられません。せんだっては、私のことをお忘れにならず、かたじけなくも何度も玉簡をたまわって、利害についてご説明くだされ、公私両面にわたってゆきとどいたご配慮をお示しくださいました。すぐにご返事をさしあげなかったのは、浅学鈍才にして、詰門に充分お答えすることができないうえに、あなたは側室をともなって、主人のやっかいになられ、家族を東方の州におかれつつ、私とは仇敵の間柄になってしまわれたからでございます。こういう事情にありながら、他人に仕えられた場合には、たとえ真情を披瀝し、肝胆をさらけ出したとしても、なおわが身は遠ざけられて罪を受け、気に入られるような発言をしても疑惑を招くことになるものです。まったく対処に苦しむことになりますのに、どうして人のことなどかまっていられるのでしょうか。それに、あなたはすぐれた才能をお持ちのうえに、典籍を広く究めておられるのですから、いったい、大道理がわからず、私の意向をご明察なさらぬはずがありましょうか。ところがなお、かくかくしかじかとおっしゃっておられます。私のこのことから、足下の言葉が実際は衷心からでたものではなく、災難から逃れるためのものと判断いたしました。あくまでも損得を計算して是非を弁別しようとなさるならば、是非の議論は天下にみちわたるほど多様であって、説明いたせばいたすほど不明確となり、何も語らなくてもさしつかえがないことになりましょう。また発言すれば絶交状のたてまえを破る結果となり、私にとって、なすに忍びないことでございました。こういうわけで、紙筆を放り出してまったくご返事いたさなかったのです。また、私の心ははるかにお汲み取りくださり、私の気持ちはもう決まっていて、二度と変わらないのだ、ということをご承知くださると願っておりました。かさねてお手紙をちょうだいいたし、えんえん六枚にわたって古今の事例を引用しておられるに及んでは、何もいわずにおこうと思っても、どうしてそのままにしておかれましょうか。
私はつまらぬ人間でございまして、もともと使者として当地にまいった因縁から、大きな州を分不相応にも治めさせていただき、こうむったご恩は深く待遇は手厚かったのです。どうして今日になって、自分のほうから逆に刀を交えることを願いましょうか。城に登って兵を指揮するたびに、ご主人の軍旗と陣太鼓を望み見、旧友のあっせんに心動かされ、弦をさすり矢をつかみつつ、涙が思わずしらず顔いっぱいあづれ出る次第です。なぜならば、みずからかえりみますに、ご主人をおたすけして働いたことには、なんの悔いもございませんし、ご主人の私への待遇も、同輩よりはるかにぬきんでていたからでございます。任務をお受けした当初は、大事をやりぬき、ともに王室に尊崇するものと思っておりました。ところがおもいもかけず、天子のご不興をかって、故郷の州が攻撃をうけ、郡将はユウ里の災禍にあい、陳留太守は暗殺のたくらみに倒れました。計画が遅延すれば、忠孝の名を失うことになり、鞭をつえついて離れ去れば、交友の義理に欠けることになります。この二つのことを比較いたし、やむをえないとなれば、忠孝の名を失うことと交友の道に欠けることとでは軽重まったく異なり、親疎画然と異なります。それゆえ、涙をぬぐって絶交を宣言したのです。もしもご主人がご友人に少しく思いやりを持たれ、止まる者には、席をはずされ、去りゆく者には、自分の感情をおさえられ、離れ去った友人に対してこだわりをもたれず、刑罰をはっきりとされてみずからの補いとされましたならば、私は、季札の志を高くかかげて、今日の戦争をすることはなかったのでありましょう。どうしてこんなことになったのか。昔、張景明はみずから壇に登って血をすすって誓い、命を受けて東奔西走し、とうとう韓馥から牧の印を譲らせることに成功いたし、ご主人は領土を手に入れられたのでした。そののち、ただ任命をうけて天子のもとに参内し、爵位を賜わり子孫に伝える資格を得たという理由だけで、ほんのわずかの間に、過失を大目に見るというお情をこうむることなく、一族皆殺しの災難をうけたのです。呂奉先は董卓を討ちとって出奔してきたさい、軍兵の貸与を申し入れて断られ、辞去したのになんの罪があったのでしょうか。再度にわたって刺客に追われ、あやうく生命を落とすところでした。劉子曠は使者として派遣され、その季節がすぎても、使者を果たすことができず、ご威光を恐れ肉親を恋い慕って、嘘をついてまで帰国を願ったのですから、忠孝の心を抱き、覇道にはなんのさしさわりもない者だと申せます。ところがたちまちみ旗の下に死骸となって横たわり、減刑のご沙汰を受けませんでした。私は愚か者であるうえに、もともとはじめにさかのぼって結末を予測し、わずかな兆候を見て明白な結末を予知したりすることはできない人間ですが、ひそかにご主人の気持ちを推測いたしますに、いったいこの三人の者は死が当然であり、死刑に該当すると申せましょうか。実際、山東地域を統一し、兵を増強して仇敵を討とうと望まれましても、兵士たちが狐疑逡巡して、悪をとどめ善を勧めることにならない心配があります。そのため、天子のご命令を廃して独断専行権を尊重されまして、原則に同調する者は栄達をこうむり、羈絆から脱することを待ち望んでいる者は、処刑を受けることになりました。これらのことは、ご主人にとっては利益でありますが、固定した主君をもちたくない人間にとっては、願うところではございません。それゆえ、私は前人の例を自己の戒めとし、追いつめられながら必死になって戦っているのでございます。私は救いようのない愚か者ではごあいますが、それでもかつて君子の言葉を聞いたことがあります。このような仕儀に立ち入りましたのは、私の本意ではなく、ご主人のせいであります。だいたい、私が、国家にそむき人民を棄て、この城に命令権を行使しておりますのは、まさしく、『君子は亡命しても、敵国に赴かない』からであります。これがために、ご主人からおとがめを受け、三カ月以上にわたる攻撃をこうむっておるのです。ところが、足下はさらにこの道理を引き合いにだされて、私への警告としておいでですが、言葉は同じでも、内容は異なっておりまして、君子が心をゆさぶられるようなものとはいえますまい。
私が聞きますには、義とは親にそむかないこと、忠とは君を裏切らないことであるとか。それゆえ、東の方は郷里の州を本家としてうしろ立てとたのみ、中央は郡将をたすけて国家を安定させんとしているのです。一つの行動で二つの利益、つまり忠と孝の両方を求めていることになります。これのどこが悪いのでしょうか。しかるに、足下は私に、根本を軽んじ、家を破壊させようとするおつもりのようです。同じくご主人を主君と仰いだわけですが、ご主人と私の関係は、年齢的には兄にあたられ、身分としては親友にあたります。道理にもどれば辞去して、天子と両親を安んずることは道義にかなった行動と申せましょう。もしもあなたのおっしゃるとおりだとすれば、申包胥は伍員に生命をさし出すのが当然であり、秦宮の庭先で号泣するのは不当ということになります。いやしくも災いをふりはらうことに汲々としておられ、おっしゃていることが、道理にはずれていることにお気づきではないのでしょう。足下はもしくかすると、城の包囲が解かれず、救援軍が到達しないのを見て、婚戚間の義理に心を動かし、平素の友愛を思い、生き方を曲げて、なんとか生きのびたほうが、義を守って破滅することよりずっとまさっているとお考えかもしれません。昔、晏嬰は白刃をつきつけられながら屈服せず、南史は筆を曲げてまで生を求めませんでした。これがためにこそ、彼らは絵図にその姿を描かれ、名声を後世に伝えたのです。まして私は、鉄壁の城にたてこもり、兵士・市民の力をかりたて、三年分の貯えをばらまいて、一年分の資とし、困窮した者を救済し、貧しい者に補給してやって、天下の人々から喜ばれているのです。どうして兵士を田野に分散して耕作させ、長期駐留しようとなさるのですか。ただおそらく、秋風が路上の塵をふきあげることになると、伯珪が馬首を南に向けて攻めよせ、張楊・張燕が強力をふるってあばれだし、北方の辺境地帯から緊急の知らせが入り、股昿の臣は帰国したいと懇請するでありましょう。ご主人は、まさに私どもの例を反省の材料として、軍隊を撤退せられ、鄴都の守りに兵を配置しておかれるべきであります。どうして、いつまでもくだらぬことに腹を立てつづけ、わが城下で兵威をふるっていていいことがありましょうか。足下は私が黒山賊をうしろ立てとして頼みにしていると非難なさるが、黄巾の賊と連合した事実だけをどうして無視されるのですか。それに張燕のやからもすべて天子の任命を受けているのですぞ。昔、漢の高祖は鉅野から彭越を取り立て、光武帝は緑林においてその基礎を築き、最後はよく中興の主として位につき、帝業を成就されたのです。かりにも、天子を輔佐して教化を興すことができるなら、何を嫌う必要がありましょうや。ましてや私は自身詔勅を奉じて、彼らと行動をともにしているのです。さらば孔璋よ。足下は故郷の外に出て利益をあがえるつもりらしいが、臧洪は天子さまと親より命令を受けているのです。あなたは盟主にその身を託しておられるが、臧洪は長安にお仕えしているのです。あなたは、私の身体が死んだうえに、名前も消え去ると思っておられるだろうが、私のほうでも、あなたが生きていようが、死んでしまおうが、いっこうに名をあげることができないのを笑っているのです。悲しいことよ。根本は同じでも、梢になると離れてしまうとは。一所懸命努力されよ。いったいこれ以上、何をいうことがありましょうや。」
袁紹は臧洪の手紙を読み、降服の意がないことを知ると、兵を増強して激しく攻めたてた。城中では糧米が底を突き、外からの強力な救援もなかったので、臧洪は、絶対に助からないと覚悟して、官吏と兵士たちを呼び集めていった、「袁氏は無道であり、その意図するところは大それたことである。そのうえ、わしの郡の将を救助しなかった。わしは、大義の上からいって、死をまねかれるわけにはいかないが、考えてみると諸君たちはなんの因縁もないのに、いたずらにこの災禍をひきかぶることになる。城が落ちないうちに、妻子をつれて脱出するがよかろう。」
将軍・官史・兵士・人民はみな涙を流して、「殿は袁氏と本来なんの怨恨も仲たがいもなかったのに、いま朝廷と郡将のことから、みずから破滅を招かれました。われわれ官民とて、どうして殿を見捨てて立ち去ることができましょうか」といった。
最初はまだ鼠を掘り出し、筋や角を煮て食べていたが、跡にはもはや食べられるものはまったくなくなってしまった。主簿が、内むきの台所に米三斗があるから、半分に分けて少しずつ粥を作りたいと言上した。臧洪はためいきをついて、「わしだけがこれを食べてなんとする」といい、薄い粥を作り、みんなに分けてすすらせ、自分の愛妾を殺して将兵たちに食べさせた。将兵たちはみな涙を流して、顔をあげられるものもなかった。男女七、八千人が枕をならべて死亡したが、離反した者は一人もなかった。
城が陥落すると、袁紹は臧洪を生け捕りにした。袁紹はかねて臧洪と親しかったから、盛大に幔幕を張りめぐらし、諸将を大ぜい集めて臧洪と会見し、「臧洪よ、どうしてこれほどまでに反抗したのだ。今日こそ、屈服したであろうな」というと、臧洪はどっかと地面に腰をおろし、かっと目を見ひらいていった、「袁一族は漢王朝に仕え、四代にわたって五人の三公を出し、ご恩を受けたといってよいであろう。いま、王室が衰弱しているときに、お助けする気持ちもなく、この機会につけこんで、大それた野心を抱き、多くの忠臣・良吏を殺害して、よこしまな権威をうちたてようとしておる。わしは張陳留を兄とよんでいたのを目の前でみている。そうすれば、わしの主君も弟となるはずだ。いっしょに努力して国家のために害毒を除く去るのがあたりまえだ。どうして軍勢をかかえながら、人が破滅するのを傍観していたのだ。残念なのは、わしの力弱く、刃をつき刺して、天下のために仇をうつことができなかったことだ。何が屈服だ。」
袁紹はもともと臧洪を愛していたので、内心屈服させて、彼を許してやりたいと考えていたのだが、臧洪の厳しい言葉を聞いて、絶対に自分の役には立たないとさとり、そこで彼を殺害した。
臧洪と同郷の陳容は、若いときに書生となり、臧洪を親のように慕い、臧洪の供をして東郡の丞に任ぜられていた。城がまだ陥落しないうちに、臧洪は城外へ出した。袁紹は同席を命じた。臧洪が殺されようとするのを見て、立ち上がって袁紹に向いていった、「将軍は大事業を興され、天下のために無法者を除き去るおつもりのはず。ところが、もっぱらまっさきに処刑されるのは忠義な人物。いったいこれが天の意志に合致したことでしょうか。臧洪は心にとがめたが、側近の者に表へひきずり出させながら、「おまえは臧洪の仲間でもないのにいいかげんにそんな態度をとるのか」というと、陳容はふりむいて、「そもそも、仁義は占有物であろうか。これを実行すれば君子になり、これにそむけば小人になるのだ。むしろきょう臧洪と同時に殺されたとしても、将軍ち同時に生きようとは思わぬ。」といったため、彼もまた殺された。袁紹の座にいた者はそろってため息をついて、こっそりといいあった、「なんたることか。一日のうちに、二人の烈志を殺してしまうとは。」これより先、臧洪は二人の司馬を城外に脱出させ、呂布に救援を要請させた。彼らが帰ってきたころには、城はすでに陥落していたため、二人とも敵陣に突入して討死した。
臧洪が宛てた手紙の内容について、裴松之が調べる『英雄記』に、「袁紹は張景明、郭公則、高元才らをつかわして韓馥を説得させ、冀州を譲渡させた」といっている。そうだとすれば、韓馥が地位を譲ったことについては、張景明にも手柄があったことになる。その他の事跡ははっきりしない。
また、裴松之の見解によると、公孫瓚は上表して袁紹の罪過を列挙していった、「袁紹はもとの虎牙将軍劉勲と、最初は強力して兵を挙げた。劉勲が何度も手柄をあげたにもかかわらず、ちょっとしたことで腹を立てて、むりやり劉勲を殺害してしまった。これが袁紹の第七の罪である。」これが劉子曠のことではないかと考えられる、としている。
臧洪は体格・容貌ともに堂々としており、人なみはずれてりっぱだった。
徐衆の『三国評』にいう。臧洪は天下の名誉と道義をあつくし、昔の主君の危難を救おうとした。彼の恩愛は人の心を感動させるに足るものであり、道義は軽薄な風俗を奮い起こすに足るものであった。しかしながら、袁紹もまた彼の真価を認めた親友であり、彼を州・郡の長官の地位にひきあげている。主君と臣下とはいえないまでも、一応実際の盟主として彼の任命を受けた以上、道義的には裏切られないはずである。袁紹と曹操はちょうど友好関係を結んでおり、王室を輔佐していたが、呂布はあっちへいったりこっちへついたり道義心なく、反逆を意図していた。ところが張邈・張超は勝手に呂布を州の牧に立てたのだから、王法からいえば一人の在罪人にすぎぬ。曹公が彼を討伐し、袁氏が救援しなかったのも、道理にはずれているとはいえない。臧洪は本来袁紹に対して出兵を請うべきではなく、また逆に仇敵となすべきではなかったのである。臧洪の身になって考えれば、かりにも、力が不足していたならば、他国に逃亡して救援を要請すればよかったし、もしもすぐに計略と武力を発揮せずに機会を待つのであれば、徐々に隙をみつけて、張超に生命を捧げてもよかったのである。無援の城を守りぬくことを誓って柔軟な態度をとらなかったのがその必要がどうしてあったのか。自分の身は死に、人民は破滅し、功名はあげられなかった。まことに哀れむべきことである。
唐順之『両漢解疑』では「友を救うこともできず、自分で功を立てることもできず、主君に貢献することもできなかった。結局何もなし得ていないのでは、匹夫と同じではないか。」と厳しい評価をしている。