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姓名 | 士燮 |
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字 | 威彦 |
生没年 | 137年 - 226年 |
所属 | 呉 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | 嘉応善感霊武大王 |
伝評 | 漢の中央政権から、交州で安定独立政権を築いた人物 |
主な関連人物 | 孫権 歩隲 士壱 |
関連年表 |
184年 交阯太守となる 200年 綏南中郎将となる 223年 衛将軍・龍編侯となる |
士燮、字を威彦といい、蒼梧郡の広信の人である。弟は士壱、士䵋、士武、子は士廞、士祗、士徽、士幹、士頌、甥は士匡がいる。
その先祖はもともと魯国汶陽の人であったが、王莽によって混乱がおこると、それを避けて交州に移った。それから六代目が士燮の父の士賜であり、彼は桓帝の時代に日南太守となった。
士燮は、若いとき京帥に出て学問をし、潁川の劉陶に師事して『左氏春秋』をおさめた。孝廉に推挙され、尚書郎にあてられたが、仕事上のトラブルにまきこまれて官を免ぜられた。
父の士賜の喪があけたあと、茂才に推挙されて、南郡の巫県の令に任ぜられ、交阯太守に昇進した。
士燮は、温厚の人柄で、謙虚で人におごることがなかったので、中原の士人たちで、彼のもとに身を寄せて難を避ける者が何百人という数にのぼった。彼は特に『春秋』を好み、その注釈を著した。
交州刺史の朱符の死後、漢の朝廷は張津を派遣して交州刺史とならせたが、その張津がのちにまた部将の区景に殺されると、荊州牧の劉表は零陵の頼恭を遣って張津の後任にしようとした。ちょうどこのとき、蒼梧太守の史璜が死んだので、劉表はさらに呉巨を遣って史璜の後任にしようとし、頼恭とともに任地に赴かせた。漢の朝廷のほうでは、張津が死んだと聞くと、士燮に璽書を下したが、それには次のようにあった、「交州隔絶した地域にあり、その南は大河と海とに面して、上からの恩徳も十分には及ばず、下々の者の忠義の心が中央に伝えられることもないままであった。逆賊の劉表めが、またもや頼恭を遣わして南方の土地をうかがおうとしておることを知った。ここに士燮を綏南中郎将に任じ、七郡の監督に当たらせる。交阯太守の任務はこれまでどおりに行なうように」
のちに、士燮は役人の張旻を遣わして、貢納品をたずさえて京都におもむかせた。当時、天下は混乱の極にあって、道路も通じなくなっていたのであるが、士燮が貢納の義務を果たし続けたことから、特別に重ねて詔が下され、安遠将軍の職をたまわり、龍度亭侯に封ぜられた。
210年、孫権は歩隲を交州刺史として派遣した。歩隲が任地に着くと、士燮はその兄弟たちともども歩隲の支配下に入った。孫権は、士燮に加官して左将軍に任じた。
士燮がその息子の士廞を孫権のもとに人質として派遣すると、孫権は彼を武昌太守に任じ、士燮ら南方に留まっている者たちも、すべて中郎将に任じた。また、士燮は益州の豪族の雍闓らに働きかけ、郡民たちをまとめて遠く東の呉に味方させた。孫権はますます士燮のことを嘉し、衛将軍に昇進させて龍編侯に封じた。
士燮が使者を孫権のもとに遣わしくるときには、いつも種々の香や目の細かい葛布が数千という数にのぼり、真珠・大貝・瑠璃・翡翠・玳瑁・犀の角や象牙などの珍宝、見たことのないような物や果物、芭蕉(ばなな)や椰子や龍眼といった類が、呉にもたらされぬ歳とてなかった。孫権は、こうした貢納品をうけとるごとに、手紙を送り、厚い賜りものを下して、士燮たちの気持ちに答えた。
226年、郡にあること四十余年、死去した。享年90。
陳国の袁徽は、尚書令の荀彧に手紙を送って次のようにいっている。「交阯の士府君は、ゆたかな学識を持たれたうえに、政治のやり方にも通じておられ、大乱の中に身を処して、一郡の安全をはかり、二十余年にわたりその領内には事もなく、民衆たちはそれぞれの仕事を守ってゆくことができて、故郷を失った人々も、みなその恩恵を受けております。竇融が河西の地を安全に保ったという例も、これに過ぎるものではありません。公の仕事にいささかの暇ができると、いつも古典を学習し、特に『春秋左氏伝』については深く詳しく習熟しておられ、私はしばしば彼に『左伝』の中の疑問点について尋ねましたが、その答えはちゃんとした学者の説にもとづくもので、議論もはなはだ綿密なものでありました。さらに『尚書』については、古文家の説と今文家の説との双方に通じて、その根本の意味あいをも詳細に把握しておられます。聞けば、京帥では古文と今文の学説の間で、その是非についていきりたった争いがあるとのこと。ここに『左氏伝』と『尚書』とに関する士燮の議論のうちでも特に優れた部分を個条書きにして献上したく思います。」こんなふうにも士燮は称賛を受けていた。
『ベトナム救国抗争史』によると、士燮はドゥオン川南岸のルイラウに首府を置き、城内には河川から水路が引かれていた。従前の中央から北ベトナムに派遣された漢人の支配者と異なり、ベトナムに土着化した士氏の支配は土着化した漢人支配層とベトナム現地の民衆の両方から支持を獲得し、中央政府の混乱の影響もあり、長期に及ぶ支配が成立した。士燮は南海交易によって利益を得、ベトナムの特産品や輸入品を漢、孫氏に貢納した。士燮が官庁に出入りするときには楽器が鳴らされて香が焚かれ、士燮の後に続く行列の中には交易に携わっていたと考えられる胡人(インド人)商人も含まれていた。
『早稲田大学大学院文学研究科紀要』によると、後世のベトナムの人間からは士王(シー・ヴォン)と呼ばれて敬愛され、13世紀の陳朝の時代には「嘉応善感霊武大王」に追封された。
陳寿の評では、南越の地の太守となり、心のままにその生涯を過ごしたが、その息子の時代になって行いを慎まず、自分から禍をまねくこととなった、としている。
葛洪の『神仙伝』によると、士燮が病死をし、すでに三日がたっていたとき、仙人の董奉が、丸薬を一つ与えて士燮に服ませるようにといった。水といっしょにその丸薬を口中に含ませると、士燮の頭を持って揺り動かしそれを飲み込ませた。しばらくすると、目を開き手を動かして、顔色もだんだんと回復して、半日もすると立ったり坐ったりできるようになり、四日でまた言葉がしゃべれるようになって、もとの身体にもどった。
混乱の中、避けて交趾に逃れた人間の中には袁忠・袁徽・桓邵・程秉・薛綜・許靖・劉巴らの名士も含まれていた。士燮は交趾に逃れた学者、知識人に保護を与え、現地の人間の教育に力を注いだ。
士燮の墓は広西チワン族自治区の蒼梧県とバクニン省トゥアンタイン県の2か所に建てられ、バクニン省トゥアンタイン県に建立された士王祠では士燮の祭祀が行われている。