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姓名 | 曁豔 |
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字 | 子休 |
生没年 | 生没年不詳 |
所属 | 呉 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 強引な性格が災いして怨まれ、公平さを欠いて不評だった人物 |
主な関連人物 | 張温 陸瑁 朱拠 孫邵 |
関連年表 |
224年 選曹郎となる |
曁豔は字を子休といい、呉郡の人である。
太子太傅張温は曁豔を選曹郎として用い、官吏の選抜に当たらせた。曁豔は昇進して尚書となり、軍事・政事の重要な職務を分担した。
当時、郎官に署せられた者の大半が不適任な人材ばかりなので、曁豔は人物の良否と賢愚の区別をはっきりさせようとし、これを実行に移した。百官の落ち度を厳しく指摘し、改めて選び直した。ほとんどその全員を、高位から一挙に数等降格して低い位に就け、旧位に留められた者は十人に一人もいなかった。
中でも、官職に居座って欲が深く心が卑しいくて、志操を汚している者は、みな軍吏とし、特別の兵営を設けてそこに収容した。
曁豔のこうしたやり方に対して、陸遜の弟の陸瑁は曁豔に手紙を送り「そもそも聖人とは人の善を嘉し、愚昧を憐れみ、過ちを忘れ、功績のみを取り上げて、教化を喚声しているのだ」と言い、「善悪を区別して評価を与えることは、風俗を正し、教化を明らかにするのに役立つが、王業が始まったばかりの今、実行するのは容易ではない。漢の高祖が瑕を棄てて人材を登用した例に倣うべきである」と忠告したが、曁豔はせっかくの意見を用いようとはしなかった。
侍御史朱拠もまた同じ意見で「性急に事を運んで身の禍いとなろう」と戒めたが、曁豔はこれもまた無視した。丞相孫邵は、曁豔に張温まで同調してあれこれ論われたため、官を辞して罪を請うたこともあった。
曁豔は同郡の除彪とともに、この性急な方針を強引におし勧めたため 、怨みと憤りの声が積もった。
人々は蔭で「曁豔と除彪は公平な道理に基づかないで、私情によって事を専断している」と譏った。彼らは罪に問われ、ついに自殺を命じられた。張温は曁豔・除彪に以前から同調し、しばしば書簡のやりとりをしていたため、二人とともに罪にあてられた。
曁豔は狷介な上に激しい性格で、好んで人物批評を行なった。
曁豔と除彪は、彼らなりに人物本位の人事を行おうとしたのだろうが、時期が悪かった。張温の高い名声を忌んだ孫権が、彼を罪に陥れる理由を考えた矢先、曁豔を罰するとともに、「曁豔がやったことはみな張温の首唱による」と言って、衆心が帰している張温に人々の怨嗟が向けられるようにした。曁豔の張温は孫権の老獪な手法の犠牲者だった。