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孫権が病死する

後漢伝


陸遜 伯言りくそん はくげん

姓名陸遜
伯言
生没年183年 - 245年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号昭侯
伝評関羽討伐や夷陵の戦いで勝利し、呉国前期を支えた重鎮
主な関連人物 孫権 呂蒙 顧雍 陸績 
関連年表 219年 荊州平定
222年 夷陵の戦い
228年 石亭の戦い
229年 上大将軍・右護軍となる
244年 丞相となる

略歴

陸遜、字を伯言といい、呉郡の呉の人である。父は陸駿、弟は陸瑁、子は陸延、陸抗がいる。

もともとの名を陸議といい、その家は代々、江東の豪族であった。陸遜は、幼くして父親を失い、従祖にあたる盧江太守の陸康のもとに身を寄せて、陸康とともにその任地の盧江におもむいた。

袁術と陸康との関係がしっくりゆかぬようになり、袁術が陸康に攻撃をかけてこようとしたとき、陸康は、陸遜を親戚の者たちといっしょに呉に帰らせた。陸遜が、陸康の息子の陸績よりも数歳年上であったことから、陸績にかわって彼に一族の取りまとめにあたった。

孫権が将軍となると、陸遜は、そのとき年は二十一であったが、始めて出仕してその幕府に入り、東曹と西曹の令史を歴任したあと、地方に出て海昌の屯田都尉となり、同時に海昌県(塩官県)の統治にもあたった。その県は連年ひどい旱魃にみまわれたが、陸遜は官倉を開いて穀物を貧しい民衆たちに分かち与える一方、農耕と養桑とを奨励したので、人々はそのおかげでなんとか生活ができた。

当時、呉郡や会稽や丹陽配下の諸郡には、逃散をして匿れひそんでいる者たちが多かった。陸遜は、意見具申をし、そうした者たちの中から兵士を募りたいと願い出た。会稽郡の山越の不服従民たちの頭領である潘臨は、かねてからいたる所で暴虐をはたらいていたのであるが、長年にわたり、つかまえることができずにいた。陸遜は配下の志願兵でもって、奥深い険阻な土地を討ち平らげ、向かう所すべて降服させ、そのようにして自軍に編入した部曲はそのときすでに二千余人にもなっていた。ハ陽の不服従民たちの首領の尤突が反乱をおこすと、陸遜はふたたび軍を動かしてこれを討伐し、その功績によって定威校尉に任ぜられ、その軍を利浦に駐屯させた。

孫権は、兄の孫策の娘を陸遜に妻として与え、しばしば、当面の政治的な課題について彼の意見を求めた。陸遜はそれに対して、山越を平定し、部隊を編成して軍を大きくし、精鋭兵をえりすぐられるように献策を行った。孫権は、その献策を入れ、陸遜を帳下右部督に任じた。

ちょうどそのころ、丹陽郡の不服従民たちの首領の費センが、曹操の与える印綬を受けて、山越たちを煽動し、魏のために内応をしようとした。孫権は、陸遜を費センの討伐にむかわせた。費センの一味はその人数が多かったのに対し、討伐に向かった兵士は少なかった。陸遜は、そこで将軍の牙旗をほうぼうにおし立て、太鼓と角笛とを各処に配置すると、夜間、山や谷の間に姿をひそめ、太鼓を打ち鳴らしときの声を挙げつつ攻めかかって、またたく間に賊を蹴散らした。引き続き東方の三郡で部隊の編成を行い、強健な者は兵士とし、体力の劣る者は民戸に編入して、精鋭の兵卒数万人を手に入れた。彼は、軍を還して蕪湖にその軍営を留めた。

会稽郡の淳于式が上表し、陸遜が不法に民衆を徴用して自軍に編入するため、民衆がそれを嫌がって各地で騒いでいると申し述べた。陸遜は、のちに郡に出る機会があったとき、話題のついでに、淳于式を立派な役人だと称賛した。孫権は、淳于式が告げ口しているのに、推称するのはなぜか訊ねた。陸遜は、淳于式は民衆たちを大切に養い育てようと願い、それを告げ口したので、自分が淳于式の悪口を申し出て乱すことを避け、泥仕合が続かないように断ち切ったと言った。孫権は、これこそ立派な人格者だと褒め讃えた。

呂蒙が病気を理由に任地を離れて建業に向かった。その途中、陸遜が呂蒙のもとを訪ねて面会すると、呂蒙に関羽を討伐するための策を話しあった。呂蒙が都に着くと、孫権に陸遜を自分の代理として推薦した。孫権は陸遜を召し寄せると、偏将軍右部督に任じて呂蒙の後任にあたらせた。

陸遜は、陸口に着任すると、関羽に手紙を送って、へりくだって関羽を油断させた。関羽は、心中、大いに安心し、呉に対する警戒心がまったく棄ててしまった。陸遜は、こうした情況をくわしく述べた上表をし、関羽を虜にするための要点を陳べた。孫権は、この報告を受けると、隠密に軍を動かして長江を遡らせ、陸遜と呂蒙とに命じてその先鋒となった。二人は公安と南郡まで兵を進めて、またたく間にそこを落した。陸遜は、そこからまっすぐ進んで宜都に入ると、宜都太守の職務にあたり、撫辺将軍の位を授けられ、華亭侯に封ぜられた。劉備のほうで任じた宜都太守の樊友は郡を棄てて逃亡し、郡の治下の城の長官たちや異民族の酋長たちもみな呉に降った。陸遜は、金や銀や銅の官印を呉の朝廷から請けおうと、それを新しく帰順してきた者たちに仮に授けた。

陸遜は、将軍の李異や謝旌らに命じ、三千人を指揮して、蜀の部将のセン晏と陳鳳との攻撃に向かわせた。水軍と歩兵で要害を押さえると、セン晏を打ち破り、陳鳳を生け捕りにした。さらに房陵太守のトウ輔と南郷太守の郭睦とにも攻撃をかけ、大いに打ち破った。豪族の文布やトウ凱らは、異民族数千人で、蜀と通じていた。陸遜は、そこでふたたび謝旌を指揮して豪族の二人を打ち破った。文布とトウ凱らは逃亡して蜀で部将となったが、陸遜が人を遣って彼らに呉へ帰順を勧めると、文布は配下をひきつれて投降した。こうした功績から陸遜は右護軍・鎮西将軍に任命され、爵位を進めて婁侯に封ぜられた。

222年、劉備が大軍を率いて西方の国境地帯へ押し寄せてくると、孫権は、陸遜を大都督に任じ、仮節を授けて、朱然・潘璋・宋謙・韓当・徐盛・鮮于丹・孫桓ら五万人を指揮して、劉備の進出をくい止めさせた。劉備は、巫峽・建平から夷陵にいたるまでの地域に互いに連なりあった砦の郡を作って、そこで数十の軍団を駐屯させるとともに、黄金や錦を与え、爵位や恩賞を約束して周辺の異民族たちに味方に付くよう誘いかけた。そのうえで将軍の馮習を大督に任じ、張南を先鋒に命じ、輔匡・趙融・廖淳(廖化)・傅ユウらをそれぞれに別督に任じて、まず呉班に数千人を率い平原地帯まで軍を進め、そこに陣営を置くと、呉に戦いを挑みかけさせた。

孫桓が別行動を執り、夷道において劉備の先鋒を討ち取ろうとしたが、かえって包囲を受け、陸遜に救援を求めてきた。部将たちは救援するように進言したが、陸遜は、孫桓の篭る城の防御は固く、食糧も十分にあるから心配ないとし、いま進めている計略が実行されれば包囲も破れるといった。

呉の部将たちはみなこれに攻撃を加えようとしたが、陸遜は、これには必ず策略があると読んで様子を見守った。部将たちは、この策略が十分に理解できず、陸遜が臆病者なのだと考えて、みな心中に憤懣を抱いていた。

劉備は、呉班をおとりにした計略がうまくゆかぬのを知ると、それまで伏せていた兵士八千人を率いて、渓谷地帯から平野へ押し出して来た。

陸遜は、命令を出して、兵士たちにそれぞれに茅をひとたばずつ持たせると、火攻めにして陣地を陥落させた。これをはずみとして、全軍に指令を出し同時に総攻撃をかけさせ、張南や馮習、それに異民族の沙摩柯らの首を斬り、四十余の陣営を打ち破った。劉備の部将の杜路や劉寧らは、せっぱつまって投降を願い出た。

劉備は馬鞍山に登ると、自分の周囲に兵士を配置した。陸遜が諸軍を叱咤激励して四方からこれを肉迫して攻撃を加えさせると、蜀の陣営はばらばらに崩れて、その使者の数は数万人にものぼった。劉備は夜陰にまぎれて逃走し、宿場の役人がみずから荷物をにない、軍楽器や鎧を道に積み上げて火をつけて追手を妨害し、やっとのことで白帝城に逃げ込むことができた。蜀の艦船や軍器、それに水軍や陸軍の軍糧が、すべて失われてしまった。劉備は、ひどく恥じいった。

このようにして陸遜の計略が総力をあげて実行されると、劉備軍は壊滅したことにより、呉の各軍団を指揮していた古参部将たちは、やっと陸遜に心服した。こうした事情があったことを知ると、輔国将軍を加官し、荊州牧の職務にあたらせ、江陵侯に封した。

のちに、劉備が白帝に本営を定めると、徐盛・潘璋・宋謙らは、競って上表し、劉備を討つための攻撃の許可して欲しいと願い出た。陸遜は、朱然や駱統の意見に同意して、曹丕が軍勢を大動員し、蜀を討伐するのだと称しながら、内心はこれを機会に呉に攻め込む奸計を抱いていたので、すみやかに軍を引き上げようと考えを述べた。それからほどなく、魏がはたして軍を進めてきた。

劉備は白帝において、陸遜に手紙を送り両国の友好関係修復の交渉を始めた。魏が呉に進攻した際に、劉備も東へ出兵するべきか陸遜に相談した。陸遜は、まずは国の力を整えるために努められるべきだと返答した。

劉備がそれからまもなく病没すると、劉禅が跡を継ぎ、諸葛亮が取りまとめ、孫権との友好関係を保った。施策について陸遜と諸葛亮で通じ合い説明した。

228年、孫権は周魴に指示し、いつわって周魴が魏に降服して魏の大司馬の曹休をさそいこませた。孫権は、陸遜を大都督に任じて、曹休を迎え討つべく派遣した。曹休は事態を覚ったが、自分がだまされておびき寄せられたことを恥とし、また自軍の兵馬は精鋭であることをたのんで、そのまま呉と戦いを交えた。陸遜は、みずから中央軍を指揮し、朱桓と全ソウとにそれぞれ左と右の部隊を率いさせ、三つに分かれて同時に軍を進めた。曹休が置いた伏兵を強行突破し、勢いに乗じて魏軍を置い散らした。軍事物資すべてを奪い取った。陸遜はこの功績で、皇帝が用いる特別な品物や貴重品を賜り、彼以上の待遇を受けた者はいなかった。陸遜は、そのあと西陵の任地へもどった。

229年、陸遜は上大将軍・右護軍の位を授かった。任地から武昌に召し寄せられ太子の後見役とならせ、同時に荊州と豫章の統治を預からせ、軍事と国事の監督にあたるようになった。

建昌侯の孫慮が、闘鶏の木柵を作って遊んでいるところ、陸遜は、厳しい顔つきで注意し、これを辞めさせた。射声校尉の孫松は、公子たちの中でも特に孫権に可愛がられているのをよいことにして、まじめに兵士の訓練を怠った。陸遜は、問題として、掛り役人を坊主にする刑に処した。南陽の射景が刑罰の優先について議論を称賛したとき、陸遜はその議論が間違っていると指摘して強く叱りつけた。

孫権は、軍の一部を割いて夷州(台湾)と朱崖とに派遣し、その地を占領したいと考え、陸遜に意見を求めた。陸遜は、まだ安定していない土地を統治して、民衆に施しをするべきだと述べた。孫権は、意志を押し通して夷州へ軍を送ったが、得たものは何もなかった。

公孫淵が呉との盟約にそむくと、孫権は、みずから征伐におもむこうとした。陸遜はそれを諌めて、魏を威圧し中華の平定を成すことが先決だと述べた。孫権はこの意見を受け入れた。

236年、孫権はみずから北方の合肥へ軍を進めると、陸遜と諸葛瑾とには襄陽の攻撃を命じた。陸遜は、特に信任している韓扁を派遣し、上表文を持って孫権に戦況報告をさせたが、その帰途、韓扁が敵と遭遇して捕えられた。敵にこちらの実情を知られてしまったので、諸葛瑾と計略して、諸葛瑾は船を指揮し、陸遜は上陸して襄陽へ攻め向かった。敵方は陸遜を恐れていたので、城内に引き返した。これを見ると陸遜はすぐに引き返して、諸葛瑾の船に急いで乗り込んで、敵の妨害を受けることなく帰国した。

237年、中郎将の周祇が、ハ陽において徴兵を行いたいと願い出て、それを許可すべきか陸遜に下問があった。陸遜は、民衆の動揺で安定させるのは困難であるとして意見を述べた。しかし、周祇は強く自分の意見を主張して許可を取り付けた。はたして反乱が起きて周祇が殺され、かねてからの不服従民たちも、略奪を始めた。陸遜は討伐を行いたいと願い出て、次々と賊徒たちを打ち破り、降服させた。投稿者の中から選抜して、精鋭兵八千人を手に入れた。このようにして三つの郡を平定させた。

皇太子の孫和と孫覇との二つの役所が並立し、中央の官僚も地方の役人たちも、多くがその弟子をそれぞれの役所に送り込んで仕えさせた。陸遜は、皇太子の勢力が互角になれば、対立関係を生じると忠告した。

244年、陸遜は、顧雍のあとをついで丞相となった。

皇太子の対立が激しくなり、陸遜は、孫権に手紙を送って、その地位が磐石のごとく不動のものとなるように計らうよう述べた。三、四たびも上書をし、さらに都にまかり出て、御前で嫡子と庶子との身分の差について直接に論じ、得失をはっきりさせたいと願い出た。しかし、それは許可にならなかったばかりか、陸遜の甥にあたる顧譚・顧承・姚信らが、みな皇太子のふところ刀となっているといいがかりをつけられ、陸遜はむりやり流罪にされた。

孫権は、幾度も宮廷からの使者を陸遜のもとに遣って彼を責め立て、陸遜は憤りのあまり死去した。享年63歳。


評価

正史三国志においては、三国の主君を除いて諸葛亮と陸遜のみが一巻をもって単独で伝を立てられるという特別扱いを受けている。陳寿は彼の計略の巧みさと忠誠心を評価し、「立派に社稷の臣と呼びえる」としている。

一方、その三国志に注を入れた裴松之は評価が辛い。236年に陸遜が自ら命じて行わせた石陽急襲により住民が多く被害を受け、その後に戦傷者を保護した一件を指して「無辜の民衆を酷い目に合わせた」「孫の代で一族が絶えたのは、この悪行の為であろうか」とまで言っている。また、後に江夏の魏将を離間策で放免させた経緯に触れ、「わざわざ自らを卑しめる策略」「小賢しい詐術」と断じ、やる必要の無い事だったと疑問を呈している。


演義

「身長八尺、面如美玉」と体躯堂々たる美男として描写されている。

夷陵の戦いのときにはカン沢(カンの字はもんがまえに敢)が陸遜を推薦したが、無名に近かった彼の起用に張昭らが反対している。夷陵の戦い後は張昭も、劉備が没した際に蜀を攻めるべきか悩む孫権に対して陸遜の意見を聞くよう進言している。

また夷陵の戦いにおいては、蜀漢軍の撃破後、追撃したが諸葛亮の石兵八陣の罠に命を落としそうになり、追撃を諦めることになっている。

小説『三国志演義』では、二宮の変にふれられておらず、晩年の孫権との不和は描かれていない。