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蜀伝


馬良 季常ばりょう きじょう

姓名馬良
季常
生没年187年 - 222年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評夷陵の戦いで無念の戦死を遂げた政治家
主な関連人物 劉備 諸葛亮 馬謖 
関連年表 210年 劉備の従事となる
220年 侍中に任命される
222年 夷陵の戦い

略歴

馬良、字を季常といい、襄陽郡宜城県の人である。弟に馬謖、子に馬秉らがいる。

五人兄弟で、いずれも秀才のほまれ高く、郷里ではこれを諺にして、「馬氏の五常(五人の秀れた兄弟。みな字に常がついていたので五常といった)、白眉(馬良のこと)が最優秀」といった。馬良は眉の中に白い毛があったために、こう呼ばれたのである。

劉備は荊州を支配すると、召し出して従事とした。劉備が蜀に入り、諸葛亮もまた後から出向くことになったが、馬良は荊州に留まり、諸葛亮に手紙を送った。劉備が蜀を支配すると、馬良は左将軍掾(えん)に任命された。

後に呉に使者として派遣されたさい、馬良は諸葛亮に向かって、二国親睦をはかることで自分を指名するようにいった。諸葛亮はためしに文章を馬良に作らせた。使者として赴いた馬良はその文章を孫権に奏上して、孫権は敬意をもって馬良を待遇した。

劉備は帝号を称すると、馬良を侍中にした。東方呉を征討するに際して、馬良を武陵に行かせ五渓の異民族を帰順させた。異民族の頭領はみな印と称号を受け取り、すべて目的どおりになった。

ちょうど劉備が夷陵で呉軍に敗北を喫し、従軍した馬良は、呉の追撃を足止めするため、自ら剣をとって突撃して戦死した。享年36歳。


評価

裴松之の注釈によると、馬良はたぶん諸葛亮と義兄弟の契りを結んでいたが、あるいは共通の親類があったのであろう。諸葛亮のほうが年長なので馬良は諸葛亮を「尊兄」と呼んだのであるとした。


演義

小説『三国志演義』における馬良は、伊籍の薦めにより劉備の元に出仕し、孔明から、荊州を守る関羽の補佐を言いつかる。関羽が、樊城を守る曹仁を攻める間に、呉の呂蒙と挟み撃ちになり、成都へ援軍を呼びに行く途中で関羽は殺されてしまう。

劉備の没後まで生きて、諸葛亮が南蛮制圧戦に出かける時に留守の間の内政を託されるが直後に死亡したことにされている。