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姓名 | 王甫 |
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字 | 国山 |
生没年 | ?- 222年 |
所属 | 蜀 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 劉備に付き従って東征し、戦死した政治家 |
主な関連人物 | 劉備 王士 |
関連年表 |
214年 綿竹の令となる 219年 議曹従事となる |
王甫、字を国山といい、益州広漢郡郪県の人である。子は王祐、従兄は王士がいる。
劉璋時代、州の書佐となった。
劉備が蜀を平定した後、綿竹の令となり、荊州の議曹従事に移った。
劉備の呉征伐に随行し、蜀軍が秭帰で敗れた際、殺害された。
人物評価や議論を好んだ。
立派な風格をもち、心ばえよく、蜀の誉れとなる人であった。
『三国志演義』では、随軍司馬として関羽の補佐をつとめる。
荊州を狙う孫権軍や、荊州守備を担当する配下の糜芳・傅士仁・潘濬に警戒して、趙累を起用するよう進言した。
しかし関羽は特に心配せず、これらの言を採用しない一方で、有事に備えるために烽火台を作るよう王甫に命令していた。その後、呂蒙により烽火台は押さえられ、荊州は陥落し、関羽は、王甫の諫言を聞かなかったことを悔やむことになった。
王甫は麦城から逃れ出ようとする関羽に対して、間道は伏兵の危険があるため、街道を進むべきと諌めた。しかし、またしても関羽はこれを聞こうとしなかった。仕方なく王甫は、周倉と共に麦城の留守を守ることになった。
王甫の案じたとおり関羽は伏兵に捕われて、殺されてしまった。孫権軍により掲げられた関羽・関平父子の首級を見た王甫は、その後を追って櫓から身を投げ、自殺した。