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姓名 | 呉班 |
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字 | 元雄 |
生没年 | 生没年不詳 |
所属 | 蜀 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 劉備の東征や諸葛亮の北伐に付き従った男伊達な武人 |
主な関連人物 | 劉備 呉壱 |
関連年表 |
213年 領軍となる 223年 後将軍となる 234年 驃騎将軍・仮節・綿竹侯となる |
呉班、字を元雄といい、兗州陳留郡の人である。父は大将軍何進の属官呉匡がいる。
幼いころ、劉焉が益州へ向かうとき、呉壱とともに一族で同行した。
劉備が益州を平定すると、領軍に任命された。
劉備が東征を起こすと、呉班は付き従って馮習の軍に参加した。馮習とともに巫県で呉の李異・劉阿らを破った。後に呉班は、陸遜を挑発させるため囮となったが、露見し失敗に終わった。
劉禅が即位すると、後に後将軍に任命された。
諸葛亮の北伐に随行して、魏延・高翔とともに司馬懿軍を大いに撃破した。
諸葛亮が死去すると、次第に昇進して驃騎将軍・仮節となり、綿竹侯に封じられた。
男伊達として知られ、常に呉壱に次ぐ官位であった。
一族に呉懿・穆皇后(劉備の妻)の兄妹がおり、呉懿と共に外戚に当たる人物である。
『三国志演義』においては張飛の都督を務め、劉備に張飛が暗殺されたことを知らせた。夷陵の戦いにも参戦し、同じく敗退した。
劉備の没後は諸葛亮の南征と北伐に従軍し、その指揮下で活躍した。李厳が兵糧補給を怠って処罰された時、その責任調査に当たり、後将軍・安楽亭侯に任じられた。諸葛亮の最後の北伐時、魏の張虎と戦って敗れ、弓矢を無数に浴びて戦死した。