登録人物伝 326 名 | 43人が閲覧中
| 姓名 | 費観 |
|---|---|
| 字 | 賓伯 |
| 生没年 | 生没年不詳 |
| 所属 | 蜀 |
| 能力 |
統率:
武力:
知力:
計略:
政治:
人望:
|
| 推定血液型 | 不明 |
| 諡号 | --- |
| 伝評 | 文武の才幹があり、交際上手だった人物 |
| 主な関連人物 | 劉備 李厳 |
| 関連年表 |
213年 巴郡太守・江州都督となる 223年 都亭侯・振威将軍となる |
費観、字を賓伯といい、江夏郡鄳県の人である。
劉璋の母は族姑にあたり、劉璋のほうでも娘を娶らせた。
213年、李厳の軍に参加して、綿竹において劉備に抵抗したが、李厳とともに降伏した。劉備は益州を平定したのち、裨将軍に任命し、後に巴郡太守・江州都督に任じた。
223年、費観は都亭侯に封じられ、振威将軍の称号をつけ加えられた。
後に三十七歳で亡くなった。享年不明。
費観は交際上手な人柄であった。都護の李厳は自尊心の強い性格で、人を寄せ付けない厳しさがあったが、費観は李厳より二十余歳年下であったが、李厳に対してうちとけた態度をとり、まるで同年輩のようであった。
37歳という若さで亡くなったが、213年に太守・都督に抜擢されていることから、若いことから才幹があり、高く評価されていたとされるが、事跡が残ってなく、伝が作られていない。
『三国志演義』では、劉璋の婿ではなく、劉璋の妻の弟(つまり義弟)として登場する。李厳を推挙した上で、史実どおり綿竹を守った。李厳が劉備軍に捕えられると、その李厳の説得を受けて綿竹を開城した。以後、登場しない。