登録人物伝 326 名 | 117人が閲覧中
姓名 | 董厥 |
---|---|
字 | 龔襲 |
生没年 | 生没年不詳 |
所属 | 蜀 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 諸葛亮の側近として才能を評価され、政務を司った人物 |
主な関連人物 | 諸葛亮 姜維 樊建 陳祇 |
関連年表 |
223年 令史となる 234年 尚書僕射となる 258年 尚書令・大将軍平台事となる |
董厥、字を龔襲といい、義陽県の人である。
董厥は、諸葛亮が丞相であったとき、その幕府の令史となった。
その後、転任して主簿となった。
234年、諸葛亮の死後、段々と昇進して尚書僕射となった。
258年、陳祇に代わって尚書令となり、大将軍平台事に昇進した。
諸葛瞻、董厥、樊建が政務を担当し、姜維がつねに征伐で外地にいるようになってから、宦官の黄皓が、政治の実権をほしいままにしたが、みな互いにかばいあって、政治の矯正することができなかった。
董厥らは、姜維が戦争を好んで功績なく、国内が疲弊していることを理由に、姜維を召還して益州刺史とし、その軍事権を奪うように劉禅に上奏すべきだと考えた。閻宇と姜維を交替させようとしていた。
263年、魏の鄧艾、鍾会、諸葛靚らが大軍で侵攻してくると、董厥は張翼、廖化とともにその迎撃に向かった。その後、董厥は、張翼とともに陽安関の守備に向かった。
陰平で敗北した姜維、廖化らと合流して剣閣に立て籠もった。しかし蜀は降伏したため、董厥は姜維らとともに成都へ戻った。
264年春、董厥、樊建らはともに首都洛陽に上り、ともに相国参軍となった。その年の秋、ともに散騎常侍の官職を兼任し、蜀の人々の慰撫にあたった。
諸葛亮は董厥を賛えて「董令史は、秀れた人物である。私はいつも彼と話をするが、思慮は深く過不足がない」といった。
『三国志演義』では、蜀滅亡後、劉禅が洛陽へ向かうときに病気となり、廖化とともに憂死したことになっている。