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呂布が董卓を殺害する

後漢伝


楊定 整修ようてい せいしゅう

姓名楊定
整修
生没年生没年不詳
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評董卓死後、献帝を廻って争い、敗れた人物
主な関連人物 董卓 王允 李傕 郭汜 
関連年表 192年 安西将軍となる
195年 後将軍となる

略歴

楊定、字を整修といい、涼州の人である。

董卓の配下となった。

192年、呂布と王允らが董卓を殺害すると、胡軫、徐栄らとともに王允に従った。しかし王允の傲慢な態度に不満を抱いていた。

李傕、郭汜らが長安に攻め込んだとき、胡軫、徐栄らとこれに迎撃して新豊に向かったが、胡軫とともに李傕軍へ寝返った。

その後、李傕は楊定を安西将軍に任じた。

195年、李傕と郭汜が争うようになると、楊定は郭汜に従った。楊定は郭汜に献帝を迎え入れるように画策したが、李傕が先に献帝を奪ってしまった。その後、張済が仲介して李傕と郭汜は和解した。

楊定は、郭汜・董承・楊奉らと共に献帝を護衛して、洛陽へ向かうことになった。

7月、後将軍に任じられた。

11月、新豊で郭汜が謀反して献帝を奪おうとしたため、楊定・楊奉がこれを撃ち破った。

華陰に入ると、段煨が一行を出迎え、献帝を自陣に迎え入れようとした。しかし、段煨と仲が悪かった楊定・种輯が反対し、董承も楊定に与して「郭汜の軍が段煨の兵営に入りました」と献帝に讒言したため、ついに一行は華陰を離れることになった。なお段煨には、献帝を独占しようという野心は無かった。

この後、段煨と交戦状態になった楊定は、追撃してきた李傕・郭汜にまで挟撃され、進退窮まって荊州へ逃亡した。


見解

楊定は荊州へ逃亡したあと、消息は一切不明である。その後、姓名を変えた可能性がある。