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魏伝


董昭 公仁とうしょう こうじん

姓名董昭
公仁
生没年156年 - 236年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号定侯
伝評策略を駆使て戦功を導き、曹魏に尽くした参謀
主な関連人物 曹操 曹丕 
関連年表 196年 天子を曹操に託す
200年 白馬・官渡の戦い
205年 冀州平定
219年 関羽包囲で建策する
221年 侍中となる
224年 光禄大夫となる
226年 太僕となる
232年 司徒となる

略歴

董昭、字を公仁といい、済陰郡定陶県の人である。子は董冑、弟は董訪がいる。

孝廉に推挙され、県の長、柏人の令に任命された。

その後、袁紹は董昭を参軍事とした。袁紹が公孫サンを界橋に迎え撃ったとき、鉅鹿の太守李邵をはじめ郡の役人は、公孫サンの兵が協力であることから、皆、公孫サンにつこうとした。袁紹はそれを聞いて、董昭に鉅鹿を統べらせ、どのような方策で防げばよいか質問した。董昭は答えて、心をひきつけるために彼らの意見に同調し、適当な処置をとって、施しをしてから人心を得て抑えるべきだといった。

そのころ、郡の豪族ら数十人が謀略して、官吏・人民を騒がせていた。董昭は郡に到着すると、袁紹の布令文を偽造して命令を下し、彼ら全員を即座に処刑した。郡全体はふるえあがった。そこで順序よく慰撫し、かくてみな安定させた。袁紹はみごとだと称えた。

また、魏郡太守の栗ハンが兵隊に殺害された。袁紹は董昭に魏郡太守の事務をとらせた。当時、郡境は治安が乱れ、賊の数は万単位にのぼっていたが、使者が往来し、取引きや商売を行っていた。董昭は彼らを厚遇し、うまく利用して仲間割れさせ、すきをついて襲撃し、賊を打ち破った。

董昭の弟の董訪は、張バクの幕下であったが、張バクと袁紹が不仲であったため、袁紹は讒言を聞き入れて、董昭を処罰しようとした。董昭は袁紹のもとを去って、漢の献帝のもとに行こうと思ったが、河内まで来ると、張楊に引き止められた。張楊に頼んで官印を朝廷に返還し、騎都尉に任命された。

当時、曹操はエン州を治めていたが、使者を張楊に派遣し、西方長安に行くために張楊の領内の道路通行を認めてもらおうとした。張楊はそれを許可しなかったので、董昭は進言して、曹操はまことに天下の英雄として称え、手を結んで深い友好を築くべきだといった。その結果、曹操の上言を通じてやり、上奏して曹操を推挙した。

曹操は、かくて西方の往来ができるようになって、天子が安邑にいますとき、董昭は河内から出かけ、詔勅によって議郎に任命された。

196年、曹操は許にいる黄巾賊を平定すると、河東に使者を派遣した。そのころ天子は洛陽に帰還したが、韓暹、楊奉、董承、それに張楊らはそれぞれ反目しあって仲が悪かった。董昭は楊奉の兵が強く、少なかったので、許にいる曹操を頼るように説得した。かくて共同で上奏し、曹操を鎮東将軍にとりたて、費亭侯とした。董昭は符節令に昇進した。

曹操は洛陽にいる天子に参内したとき、董昭を引き入れ座ると、今後の計略について質問した。董昭は、王室を輔佐して許に移転し、朝廷を安定させるよう進言した。さっそく、御車を許へ移した。

楊奉はこのことからあてを無くし、韓暹らと荒らしまわった。董昭の計略で曹操は相手にせず、ひそかに彼らの本拠地を攻撃し、降伏させて即座に平定した。楊奉と韓暹は軍勢を失い、東方の袁術に降伏した。

198年、董昭は河南尹に昇進した。この頃、張楊は部下の楊醜に殺され、張楊の長史薛洪らは城を固守して袁紹の救援を待っていた。曹操は董昭に命じて単身城に入らせ、彼らを説得させた。即日、軍勢をあげて降伏した。董昭は冀州の牧にとりたてられた。

曹操は劉備に命じて袁術を防がせたが、董昭は、劉備は野望を持ってひるがえすと予測して諌めたが、聞き入られなかった。劉備は下ヒにつくと、徐州刺史の車胄を殺して、背いた。曹操は自身劉備を征伐し、董昭を徐州牧に転任させた。

袁紹が将軍の顔良を送って東郡を攻撃させると、また董昭を魏郡太守に転任させ、ひき従えて顔良を討伐した。顔良の死後、進軍してギョウ城を包囲した。董昭は、ギョウ城中にいた袁紹の同族である袁春卿に書簡を送って、降伏させた。

ギョウが平定されたのち、董昭を諫議大夫にとりたてた。のちに袁尚が烏丸族のトウ頓を頼ると、曹操はそれを征伐したが、兵糧輸送の困難を心配した。董昭は建策して、平虜・泉川の二運河を掘り、海に輸送路を通じた。曹操は上奏して彼を千秋亭侯にとりたて、司空軍祭酒に転任させた。

のちに董昭は、古代の五等級の爵位制度を復活すべきだと進言し、諸侯や将軍たちと相談し、丞相の爵位を国公に引き上げ、九錫(大功ある臣下に対する九つの下賜品)を具え、特別な勲功を明らかにすべきであるとして、荀イクに手紙を送った。

関羽が曹仁を樊に包囲したとき、孫権は使者を派遣して、曹操に共同作戦を持ちかけてきた。このことを関羽に秘密ごとで進めようとしたが、董昭は、孫権の希望に応えつつ、ひそかに関羽にこのことを漏らし、関羽を引き上げさせて、包囲を解けて、孫権と関羽とを対峙させて疲弊を待つことで、目指す利益が得られると主張した。また、関羽は激しい性格の持ち主で、守備防御に自信をもち、すぐには引き退かないとも推測した。

曹操はさっそく救援の将軍徐晃に命じ、孫権の文書を包囲の内部と関羽の屯営に射込ませた。関羽は案の定、決断を下さず引き退かなかった。孫権の軍は到着して、二城を手に入れ、関羽は打ち破られた。

曹丕が王位につくと、董昭は将作大匠に任命した。天子の位につくと、大鴻臚に昇進させ、右郷侯に位をあげた。

221年には侍中に転任した。

222年、征東大将軍の曹休は長江を前にして洞浦口に滞在しており、江南へ出兵したいと願い出た。曹丕はこのことを懸念し、董昭と相談して、敵地奥深く侵攻にあたっては進退きわまり、天変地異においても危険であることを進言し、詔勅を下して中止させた。その後、董昭の進言は的を射たので、曹丕は、董昭を明晰で張良・陳平(漢初めの戦略家)に例えた。

224年、成都郷侯に国がえされ、太常に任命された。その年、光禄大夫・給事中に転任した。

曹丕の東征につき従い、226年に帰京し、太僕に任命された。

230年、司徒の事務取扱いとなり、232年に正式な司徒本官となった。軽重浮薄の輩が世に跳梁跋扈しており、これを除くべきだと明帝に上奏し、多くの者の公職追放が実行された。これにより諸葛誕らが罷免した。

236年、董昭は逝去した。享年81歳。


評価

策略家として進言した計略、建策が明晰でこれみな的を射ていた。曹操幕僚である郭嘉、荀イク、荀攸、賈ク、程イク、劉曄らと並ぶ参謀と評された。魏書においても、程イク、郭嘉らに次いで伝が記載されている。晩年は政治中枢として担い、県を治めても高い能力を持つ人物だった。

魏建国のきっかけともなった人物であり、荀イクに手紙を送っていることから、荀イクの『空の器』事件に発展した可能性が高い。


演義

小説『三国志演義』では、初登場時は献帝の洛陽帰還のときであり、菜食主義者で、自ら飢饉の時でも血色が良いのはこのためだと語っている。