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姓名 | 劉曄 |
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字 | 子揚 |
生没年 | 生没年不詳 |
所属 | 魏 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | 景侯 |
伝評 | 光武帝の庶子、劉延の子孫でありながら、魏の重臣となった政治家 |
主な関連人物 | 曹操 曹丕 曹叡 司馬懿 |
関連年表 |
196年 曹操と会見する 215年 漢中平定 223年 広陵の戦い 232年 大鴻臚となる 234年 太中大夫となる |
劉曄、字を子揚といい、淮南郡成悳県の人である。兄は劉渙、子は劉寓、劉陶がいる。漢の光武帝の子阜陵質王劉延の後裔である。
父の劉普と母の脩とは、渙と曄をもうけた。劉曄が七歳のとき、母は病気に苦しんだ。臨終のとき二人にいいきかせて、父の側近は悪事を引き起こす性質をもっているから、母亡き後に彼らを除くことを遺言した。
劉曄は十三歳になると兄の渙に、亡き母の言葉を実行しようと相談した。兄の渙はそれを諌めたが、劉曄はすぐさま奥の部屋に入って側近を殺すと、そのまま外に出て母の墓に報告した。父の普は怒り、人をやって劉曄を追いかけさせた。劉曄は帰ると頭を下げて謝り、勝手に行動した罰は存分に受けるといった。父は心中彼を見どころあると思い、けっきょく咎めなかった。
汝南の許劭は人物評価によって有名であったが、揚州に避難して来て、劉曄には君主を輔佐する才能があると誉めた。
劉曄が二十余歳のとき、揚州には、あらくれ者が多く、鄭宝、張多、許乾といった連中がそれぞれ配下を抱えていた。鄭宝がもっとも勇敢で、地方にはばをきかせていた。劉曄が高貴な家柄の名士であることから、劉曄を強迫して首唱者とならせようとした。劉曄は心中心配して、どうすることもできなかったが、ちょうどそのとき、曹操が使者を揚州に派遣して調査質問したことがあった。劉曄は会いに出かけ当時の状勢について論じたり、むりにでも帰還のお供をしようと、数日間ねばっていた。
鄭宝ははたして数百人をひきつれ牛と酒をもって使者のご機嫌伺いに訪れた。劉曄は仲間たちをひきつれ酒宴の中で鄭宝を殺すてはずであったが、鄭宝は酒が飲めなかった。そのため思いきって行動が起こせないでいたが、劉曄はみずから刀を引き寄せ鄭宝を斬り殺し、その軍に命令して、「曹公より命令である。じたばたする者は鄭宝と同罪じゃ」人々はみな恐れて、陣営に逃げ帰った。
また劉曄は彼らの精鋭兵が混乱することを懸念して、彼らの親分連中を呼び出し、利害について説ききかせた。劉曄がいたわり心を落ち着けてやったので、全員喜んで服従し、劉曄を推し立てて主君とした。劉曄は、王族のはしくれである自分が兵をもつことを望まなかったので、かくてその配下の者を盧江太守劉勲にまかせた。
当時孫策は、劉勲が兵を吸収したことを面白くなかったので、劉勲を騙した。孫策は、不服従民の討伐をしたいが、交通が不便なので、劉勲に兵を出して外部から援助して欲しいといってきた。劉曄は孫策が留守をついて襲撃することを考慮して、劉勲を諌めた。しかし聞き入れず、兵を動員して討伐したが、予想どおりその留守を襲撃した。劉勲と劉曄はせっぱつまって、けっきょく曹操のもとに逃げた。
曹操は、揚州の名士である劉曄をはじめ、蒋済、胡質らを召し寄せた。彼らを集めて会見し、戦闘の術、敵の変化、軍の適切さ、人物などについて論議が行われた。劉曄を除く彼らは曹操の質問に対して、争って答え、順番を待って発言した。劉曄は二度目の会見もそのように口を閉ざして発言しなかったので、周囲はそのことを嘲笑った。のちに、曹操が口を閉ざしてそれ以上質問をしなかったとき、劉曄ははじめて深遠な言葉を用いて曹操の心を動かした。曹操がはっと気づくとそのまま口を閉ざした。こういうことが三度あった。その趣旨は、深遠な言葉は精神に求めるもので、一人だけの会見によってその機敏を充分に語らせるべきであって、むやみに座談させるべきではないということだった。曹操は彼の心を探り当てたのち、会見を終えた。周囲の四人は県令に任命したが、劉曄には腹心の任務を授けた。
曹操が寿春に到着したとき、盧江に陳策という山賊がいて、数万人が要害をたてに守っていた。以前に兵を派遣したが、勝利を得ることができなかったので、曹操は討伐すべきかどうか配下に質問した。皆、攻撃は困難で利益はないと主張した。劉曄は述べて、力で攻めるのではなく、恩賞をかけて降伏を呼びかけ、大軍をもって向かえば、軍門は開かれると進言した。曹操はかくて勇将と大軍を前におき、到着すると陳策は降伏し、劉曄の予測したとおりになった。曹操は帰還して、劉曄を召し出すと司空倉曹縁に任命した。
曹操は張魯を征討したとき、劉曄を主簿に転任させた。漢中につくと、山はけわしく登るに困難であり、兵糧もかなり欠乏した。曹操は早く帰るほうがよいといって撤退し、劉曄に命じて後続の諸軍をとりしきらせた。劉曄は張魯に勝てると判断したうえ、攻撃するよう進言した。かくて兵を進めて彼らの陣営を落とし、張魯は逃走し、漢中はかくて平定された。
ひきつづいて、蜀の劉備は、蜀に入ってまだ日は浅く、人心落ち着かない今こそ攻めて、要害の地を防備させる前に征討するように進言したが、曹操は聞き入れなかった。
劉曄は漢中から帰還すると行軍長史兼領軍に任命された。
220年、蜀の将軍孟達が軍勢をひきつれて降伏した。曹丕は才能をかって大いに寵愛し、孟達を新城の太守にとりたて、散騎常侍の官位を加えた。劉曄は、孟達は一時的な利得にひかれて降伏し、才能にたより策を好み、恩寵と道義を忘れる人物として、いずれ事変して災難を招くとして諌めた。曹丕はけっきょく変更せず、のちに孟達は反乱を起こしたのであった。
劉曄は侍中にとりたてられ、関内侯の爵位を賜った。
曹丕は、劉備が関羽のために呉報復の出陣を決意するか、君臣に質問し判断させた。人々の議論はすべて、蜀は小国で、名将は関羽だけであって、内々心配と恐れを抱いて、二度と出撃する機会はないという意見だった。劉曄だけは、劉備は権威・武力によって国を強め、必ず軍勢を用いて充分な力があることを示し、劉備と関羽は父子同然で恩愛の道義を貫くだろうといった。
のちに劉備は予想どおり兵を出動させて呉を攻撃し、呉は魏に使者を派遣して藩国(従国)と称してきた。朝臣はすべて慶賀したが、ひとり劉曄だけは述べて、呉は長江・漢水に離れて存在し、難儀を逃れるための臣下を願い出ただけで、まったく信用できないといった。
はたして劉備の軍が敗北すると、呉の示す礼節・敬意は一変して捨て去られた。
曹丕は軍勢を起こして呉を討伐したいと考えたが、劉曄は、呉は期待どおりの結果を得て一変しているので、行動を起こすのはとても困難だと諌めた。曹丕は聞き入れなかった。
224年、広陵から侵攻し、荊州・揚州の諸軍に命じて同時に進撃させた。曹丕は、孫権みずから軍を率いて来るのか、臣下に質問した。すると、皆、孫権は恐れて必ずや国をあげて対応し、あえて大軍勢を臣下に委ねることはないといった。劉曄は、それを否定して別の将軍の役目と考え、まだ行動することはないと主張した。
曹丕は軍をじっと止めたまま抑えて何日か経過し、孫権が来るのを待っていたが、けっきょく来なかった。曹丕は引き返して、劉曄にいった、「君の予測はすべて正しかった。わしのために二賊(蜀・呉)を滅ぼすことを念頭に考えてくれ。ただ彼らの考えを悟るだけではいかん」
曹叡が即位すると、東亭侯に爵位を進められた。
遼東の太守公孫淵が叔父の公孫恭の位を奪って勝手に官位につき、使者を派遣してその事情を上申した。劉曄は、代々長年権力を受け継ぎ、蛮族の住む絶遠の地となって制御しにくくなり、処罰しなければ、のちに禍を招くといった。また先手をうってその不意をつき、公孫淵の反対派や仇敵を誘って恩賞を授け、兵をもって臨めば平定できるであろうといった。のちに公孫淵はけっきょく背いた。
232年、病気のため、太中大夫に任命された。しばらくして大鴻臚となったが、官位にあること二年で職をゆずり、また太中大夫となって、逝去した。享年不明。
劉曄は胆略があり、その説明はすべて具体的で人を納得させるものがあった。
また、晩年曹叡に疎まれ、孤独感に陥ったあまり、発狂して死んだ。彼は上記の逸話に見られるように、自分の心情を固く秘めておく人であった。劉曄を嫌っていたある重臣が劉曄を讒言して曹叡に「劉曄は陛下の意をうかがいそれに迎合する不忠者です。試しに彼に対して陛下のお考えと反対のお言葉を仰ってくださいませ。もし劉曄が反対するようでしたら、陛下の意にかなっているといえるでしょう。もし賛成するならば、劉曄の考えは明らかになるというものです」と進言した。曹叡がその重臣の進言通りに試してみると、果たして劉曄はその重臣の話した通りに接したので、それ以降、曹叡は劉曄を信用しなくなった。
小説『三国志演義』においては、郭嘉の勧めにより史実より早い時点で曹操に仕えたことにされている。
また、魯粛の友人の劉子揚という人物が劉曄とは別に登場し、鄭宝との出来事は呉書の記述に沿った内容で劉子揚が正史の劉曄の役割を担っており、劉曄と魯粛が友人関係であったことは『演義』では触れられない。
官渡の戦いの際に発石車を発案している。