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曹操と劉備の英雄論

魏伝


蒋済 子通しょうさい しつう

姓名蒋済
子通
生没年? - 249年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号景侯
伝評逸材を見抜く才能を持ち、参謀として活躍した酒癖の悪い人物
主な関連人物 曹操 曹丕 曹叡 司馬懿 曹爽 
関連年表 209年 丞相主簿西曹となる
219年 関羽討伐で呉と共同を謀る
220年 東中郎将となる
222年 尚書となる
229年 中護軍となる
239年 領軍将軍・昌陵亭侯・太尉となる
249年 都郷侯となる

略歴

蒋済、字を子通といい、楚国平阿県の人である。子は蒋秀がいる。

出仕して郡の計吏、州の別駕となった。

208年、孫権が軍勢を率いて合肥を包囲した。そのとき、魏の大軍は荊州を征討していたが、疫病の流行があった。そのため将軍の張喜に単身千騎を率いさせ、汝南を通過の際にその兵を配下に収め、それによって包囲を解かせることにしたが、やはりかなりの兵が疫病にかかった。

蒋済はそこでいつわって、歩兵・騎兵四万がすでに到着している旨の張喜の手紙を手に入れたから、主簿をやって張喜を出迎えさせるようにと内密に刺吏に書き送った。三組の使者が手紙をもって城中の守備隊長に報告することになり、一組は城に入ることができたが、二組は孫権の軍に捕まえられた。孫権はこの手紙を信用し、急遽包囲の陣営を焼き払って逃走し、城はおかげで無事に済んだ。

翌年、使者として出向いた蒋済に曹操は質問して、「淮南の民衆を移住させたいと思うが、どうじゃ」蒋済は答えて、「人民は郷里をなつかしむもので、実際移住を喜びません」といった。曹操は蒋済の意見に従わなかったため、長江・淮水のあたりに住む十余万の人々はみな慌てて呉へ逃げ込んだ。

のちに蒋済が使者として曹操に出会ったとき、大笑いして、「そもそも賊を避けさせようとしただけなのだが、かえってすっかり向こうに駆り立ててしまったわい」といった。蒋済を丹陽太守に任命した。

蒋済が謀叛をたくらんだ首謀者であると密告した住民がいた。曹操はそれを聞くと、「蒋済にどうしてこの事があろうぞ。これはきっと愚民が騒乱して楽しんで、彼をまきぞえにしただけじゃ」裁判官をせきたてて蒋済を釈放させた。召し寄せて丞相主簿西曹の属官にとりたてた。

関羽が樊と襄陽を包囲したとき、曹操は漢の皇帝が許に住まい、関羽と近い距離にあることから、都を移したいと考えた。司馬懿と蒋済とは曹操に進言して、孫権と共同して背後をつかせて、王位にとりたててやるのがよいといった。孫権はそれを聞くや、即座に兵を率いて西方に向かい、公安・江陵を突き、関羽はかくて捕えられた。

曹丕が王位につくと、相国長史に転任させられた。帝位につくと、外に出て東中郎将となった。蒋済は政府に留まることを願い出た。詔勅で、「天下はまだ安定せず、良臣を用いて鎮めなければならぬ、もしも平穏になれば、帰還して出仕しても遅くはないだろう」とした。

のちに蒋済は、『万機論』(政治についての議論)を献上し、曹丕はそれを称えた。政府にもどって散騎常侍となった。

当時、詔勅が征南将軍の夏侯尚に下され、「臣下に対して刑罰を行い恩賞を施し人を殺し人を生かせ」とあった。夏侯尚はそれを蒋済に見せた。蒋済が都に到着すると、曹丕は、「見聞した天下の風俗教化はどうじゃ」と質問した。蒋済は答えて、「他のよいこととてありませぬ。ただ亡国の言葉があるだけです」曹丕はかっとなって顔色を変え、理由を訊ねた。蒋済は、「そもそも刑罰を行い恩賞を施す作威作福とは『尚書』に見えるはっきりしたいましめの言葉です。天子には戯れの言葉はなく、古えの人は慎重でありました。どうか陛下におかせられましては、そのことをご推察くださいますように」と述べた。その結果、曹丕は気持ちはほぐれ、前の詔勅を取り戻させた。

222年、大司馬の曹仁とともに曹丕は呉を征討した。蒋済は別軍として襲撃した。曹仁が濡須の中洲を攻撃するつもりでいると、蒋済は、危険であると諌めたが、曹仁は従わず、案の定敗れた。

曹仁が死去すると、ふたたび蒋済を東中郎将に任命し、曹仁に代わってその兵を支配させた。

のちにしばらくして中央に召し寄せ尚書に任命した。曹丕みずから広陵に軍を進めたとき、蒋済は水路の交通が困難であることを上奏し、また『三州論』をたてまつり、曹丕を諌めたが従わなかった。その結果、軍船数千隻はすべて渋滞して進むことができなかった。

この機に兵を留めて屯田したいといったが、蒋済は、水勢の盛んな時期には、賊が侵略しやすく、落ち着いて屯田できないと主張した。曹丕はその意見に従い、ただちに出発した。船をすべて蒋済にあずけた。蒋済は地を掘って水路を作り、あらかじめ土堤を作って湖の水をせきとめておき、船をつなぎあわせ、一度にせきを開いて淮水の中に流して動かした。曹丕は洛陽に帰ると蒋済に、「わしは半数の船を焼き捨てようと決心したが、君は後に残ってそれらを送ってきて、ほとんどいっしょに到着した。今後、討伐の計画についても、よく考えて意見を述べてくれ」といった。

曹叡が即位すると、関内侯の爵位を賜った。大司馬の曹休が軍を統率して皖に向かったとき、蒋済は上奏して、深く敵地に侵入すると、朱然らが背後を突くから危険だと述べた。また、曹休の救援を出すべきだと進言したが、そのとき、すでに曹休は負けて、武器輜重すべて放棄して退却していた。しかし救援がかけつけたおかげで全滅は免れた。

蒋済は中護軍に昇進した。当時、中書監の劉放と中書令の孫資は専権の任であるといわれていた。蒋済は上奏して、官職を腐敗させる弊害が起こるとして諫言した。護軍将軍に昇進し、散騎常侍の官位を加われた。

232年、曹叡は平州の刺史田豫に海路を渡らせ、幽州の刺史王雄に陸路を行かせ、同時に遼東を攻撃させた。蒋済は諌めて、その人民を手に入れても国益にならず、信義を失うことになるといった。曹叡は聞き入れなかった。けっきょく田豫の行動は失敗して帰還した。

景初年間、外は征伐にあけくれ、内は宮殿造営に力を費やしたため、やもめの男女が多くなり、穀物も実りが少なかった。蒋済は上奏して、厳しくこれを諌めた。曹叡は、「護軍(蒋済)がいなければ、わしはこういう言葉を聞けないであろう」と評した。

公孫淵は魏の司馬懿が征討に来ると聞いて、孫権に対して臣下の礼をとり、兵を要請していた。曹叡は蒋済に相談して、「孫権は救援するだろうか」と訊ねた。蒋済は、距離も遠いうえ、様子をみるから兵は出さず、事態がすぐに決着つかなければ、あるいは孫権が襲来するかもしれず、予測できないと答えた。

曹芳が即位すると、領軍将軍に転任し、昌陵亭侯に爵位を進められ、大尉に昇進した。曹爽が政治権力を一手に握り、丁謐らが法律・制度を軽視し改変した。蒋済は、太傅の司馬懿に随行して洛水の浮橋に駐屯し、曹爽らを誅滅し、都郷侯に爵位を進められた。この恩賞について、曹爽誅滅の手柄は無いと主張し、固く固辞したが、許可されなかった。

その後、この年に蒋済は逝去した。享年不明。

『世語』によると、蒋済は曹爽に「ただ免職にするだけだ」と司馬懿の考えを述べて投降させたが、けっきょく曹爽は司馬懿に殺され、蒋済は自分の発言が信義にも取ったことを気に病み、病気を起こして亡くなった。


評価

蒋済は「硬骨漢」と呼ばれ、曹丕や曹叡らに物怖じすることなく、意見を述べている。その結果、高く評価された。また、人物眼に優れ、鍾会の優れた才能を逸早く見抜いている。

一方で大の酒好きで、酒に酔っては乱暴したり、面会を求めた者を体よく追い返すなどの一面があったため、人から恨まれ、人望は乏しかった。

その中で時苗とのこんな話がある。蒋済が揚州の補佐官だったとき、寿春の県令であった時苗が会いに来た。 普通名士が来れば約束がなくても会うのが当時の礼儀であったが、この時蒋済は泥酔していて面会できる状態ではなかったので、時苗を門前払いにしてしまった。 激怒した時苗は帰宅すると、その日から木で作った人形に、「酒徒蒋済(酒飲み蒋済という意味)」と書き記し、それを土塀の下に置いて、朝夕公然と弓で射るのを日課としたのだ。 このような行為をされた蒋済ではあるが、別段気にしなかったという(常林伝にひく『魏略』清介伝より)。

蒋済は同世代の司馬懿と親友の仲にあり、正史にも彼と司馬懿の会話が記載されているものが少なくない。曹爽の下に桓範が逃亡した際は、曹爽には桓範は用いられないだろうと言い、結果その通りになった(曹爽伝がひく『晋書』より)。王凌の子である王広の才能を司馬懿の前で賞賛し、後で王凌の一門を滅ぼすことになるのではないかと後悔した話がある(王凌伝がひく『魏氏春秋』より)。