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姓名 | 鮑信 |
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字 | --- |
生没年 | 152年 - 192年 |
所属 | 魏 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 節義と知謀を兼ね備えて献策し、多くの人に慕われた人物 |
主な関連人物 | 曹操 鮑勛 |
関連年表 |
189年 行破虜将軍となる 191年 済北の相となる |
鮑信は泰山群平陽の人で、漢の司隷校尉鮑宣の八世の孫である。父は鮑丹、鮑韜の兄、子は鮑邵・鮑勛らがいる。
父鮑丹は少府、侍中まで宮位が昇り、代代その家は儒学を修めて有名だった。
鮑信は霊帝の時代、大将軍何進にめされて騎都尉に任じられた。若いころから高い節義を謳われ、沈着剛毅で知謀に富んでいた。
189年、何進は宦官の誅滅を計画したが、妹の何太后に反対され、近衛の兵権も宦官に握られていたため、諸侯を都に呼んで命じられて郷里において兵を慕って千余人を得、成皋まで戻ったところで何進はすでに殺されていた。都に到着すると、董卓も入洛していた。
成皋は董卓が乱を起こすことを露見して、袁紹に「董卓は強兵を擁して異心を抱いています。今はやくこれを謀らなければ、彼の思うままにされましょう。着いたばかりで疲れているところを襲えば必ず擒に出来ます」と勧める。しかし袁紹は躊躇した。鮑信は郷里に帰り、歩兵二万、騎兵七百、輜重五千余台分を集めて騒乱に備えた。
この年12月、曹操が己吾において旗揚げした。鮑信は弟の鮑トウとともにこの兵力で曹操に呼応した。鮑信の兵力は、陳留の孝廉衛慈に提供された家財を資本に集めた五千の兵とともに、草創期の曹操にとって掛替えのないものになった。
当時、袁紹に靡く諸侯が多い中で、鮑信は独り曹操に「不世出(世に稀なくらい優れる)の策略を持ち、英雄を統率して乱を収め、本来在るべき姿に反すことが出来るのは君である。いやしくもそれに値する人でなければ、いくら強大だといっても必ず滅びてしまう。君はほとんど天が導き給うお人だ」と述べ、進んで深い交わりを結んだ。
鮑信は行破虜将軍に、鮑トウは裨将軍に任じれられた。
190年、曹操は滎陽のベン水において董卓の将の徐榮と戦って敗れ、鮑トウは戦死、鮑信は負傷、曹操自身も矢に中って傷を負った。一方、袁紹は韓馥に迫って冀州の牧の位を奪い、191年にそのまま自分の根拠地とした。
鮑信は「今、袁紹は盟主でありながら、権力によって利を一人占めにしており、やがて乱を起こすに違いなく、正に『第二の董卓』だと言えます。これを抑えるには我我は力不足なので、黄河の南に手をつけ、彼に変事が起きるのを待つべきです」と進言し、曹操も賛成した。
曹操は東群太守となり、上表して鮑信を済北の相とした。
192年、青州の黄巾が兗州に侵入、鮑信が止めたのに、兗州刺史劉岱は出戦して敗死した。そこで鮑信は州吏の萬潜と一緒に東群に行き、曹操を抑えて兗州の牧とした。
曹操は賊が勝ちをたのんで驕っているのを見て、奇兵を設けて寿張で迎え討とうとした。曹操は鮑信と偵察に行き、後続の兵がまだ来ない間に賊と遭遇、白兵戦となった。鮑信は決死の戦いをして曹操を救い、お陰で彼は脱出出来たが、鮑信はついに戦死した。まだ41歳だった。
曹操は鮑信の遺体を賞金を出して求めたが得られず、人々は木を刻んで鮑信の姿として、それを祀って克礼を行った。この後、曹操は済北まで黄巾を追跡して降伏させ、兵卒三十余万、それ以外の男女百余万を得た。降卒の中から精鋭を選抜して曹操軍団に組み入れたのが、「青州兵」であり、曹操の覇権獲得の原動力になった。清の学者何シャクは「魏武(曹操)の強きは此れより始まる」と評している。
動乱に遭って挙兵したとは言っても、鮑信の家は本来儒学を修めた家柄で、我が身は至って節倹に努めた。しかし兵士を厚遇したので、彼らは深く心を寄せた。
『三国志演義』では、鮑信の字は允誠で、反董卓連合軍の関東諸侯の中でも特に無能な人物として描かれており、先鋒を命ぜられた孫堅を出し抜くため、弟の鮑忠と共に抜け駆けをし、華雄に大敗した上で弟は華雄に討ち取られてしまう。最期は正史と同様に青州黄巾賊との戦いで戦死するが、曹操を助けるためではなく、功績を焦って突出したため戦死したという扱いになっている。