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劉備が帝位に就き蜀漢建国

魏伝


許攸 子遠きょゆう しえん

姓名許攸
子遠
生没年? - 204年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評曹操に馴れ馴れしい態度が仇となって処刑された人物
主な関連人物 曹操 荀彧 
関連年表 不明

略歴

許攸、字を子遠といい、荊州南陽郡の人である。

184年、黄巾の乱の後も権臣や宦官が朝政を壟断し、後漢は衰頽の途を辿る一方だった。これを見て冀州刺史王芬は南陽の許攸・沛国の周姓とともに各地の豪傑と結んで、霊帝を廃して劉氏の一族合肥候を迎えようとした。

後漢の名士陳蕃の子陳逸は、平原の方士のジョウ楷と一緒に、王芬と同席したことがあった。ジョウ楷は「天文は宦官に不利な現象を示しており、彼ら黄門・常侍といった高位に就いている連中は一族皆殺しになりましょう」と言った。連逸はあさはかにも喜び、王芬は王芬で「もしそうなら私が奴らを駆除しよう」と言い出した。霊帝が河間群の旧宅を訪れるのを機に兵を起こそうと考え、黒山の賊を討つ名目で出兵の許可を求めた。が、太史令はこれも天文を観て、「陰謀の気あり」と上奏したため、許可は下されず、王芬は恐れて自殺し、許攸は慌てて身を隠したというのが顛末であった。

許攸は曹操と親しかったが、身を寄せたのは、名門として飛ぶ鳥落とす勢いがあった袁紹のもとだった。

189年、董卓と対立した袁紹は洛陽を脱出し、許攸は逢紀と一緒に彼に随行した。

199年、易京で公孫瓚を倒した。袁紹の勢いは強大化する一方で、長子袁譚に青州を、次子袁煕に幽州を、甥の高幹に并州をそれぞれ治めさせ、審配・逢紀に軍務を統軸させ、顔良・文醜を将師に任じた。この時、許攸は田豊・荀諶と並んで謀主として作戦計画を担当した。

袁紹はいよいよ兵を進めて許を攻めようとし、曹操は管渡の防備を固めた。この時、孔融に対して荀彧は、袁紹配下の諸将の性情を分析して、「許攸は貧欲で素行が治まらない。留守を預かる審配・逢紀は無謀且つ独断的で、もし許攸の家族が法を犯せばそのままにしておくまい。家族が罰せられれば、許攸は必ず裏切るだろう」と予測した。

200年、官渡の曹操軍は袁紹の大軍に包囲され、食糧が尽きかけていたこの時、許攸が降伏して来た。許攸は別軍を急派して許にいる献帝を迎えるのが天下を定める早道だと進言したが、袁紹にはねつけられたのを憤っての投降だと言った。

曹操は許攸の来降を知ると跣で彼を出迎えた。許攸は勢い盛んな袁紹にどう対処するかと訪ね、糧食はどのくらいあるかと問うた。一年分はあると答えると、許攸はそんなはずはないと言った。半年分だと答えると、許攸は「足下は袁紹を破ろうと欲しないのか。何故嘘をつかれるのか」と責めた。曹操は、実は一月分しかないと打ち明けた。

許攸は曹操に、袁紹の本営の北四十里(約3~3.6キロ)の鳥巣に宿営した淳于瓊率いる輜重部隊を攻めよと勧め、謀臣の荀攸・賈詡も賛成した。そこで曹操は自ら歩兵と騎兵併せて五千を率いて進発、明け方に鳥巣に到着した。淳于瓊は曹軍の兵数の少ないのを見て、営門の外で迎え撃ったが大敗、部将たちとともに捕らえられて殺された。袁紹に命じられて急行した騎兵も敗れ去った。

淳于瓊以下千余人を捕らえて鼻を削ぎ、牛馬は舌と唇を切り取って、それを袁紹の兵士たちに見せると、彼らはみなふるえあがった。初め、曹操は淳于瓊を助命するつもりだったが、「彼が鏡を見たらなんと思うか」と許攸に言われ、殺害した。

袁紹は「曹操が淳于瓊と戦っている隙に、その本営を打ち破れば、彼は還る所がなくなる」と言って、張郃・高覧に命じて攻撃させた。しかし、彼らは淳于瓊が敗れたと知って投降、袁紹・袁譚父子は軍を棄てて逃亡した。曹操が没収した袁紹宛ての書簡には、許や軍中で、二股をかけていた連中のものが多数含まれていた。曹操は中身を見ないまま、焼却させ「袁紹が強かったことろはわたしでさえ、自分はどうしたらいいか、わからなかった。まして他の人はなおさらだ」と言って、一切咎め立てしなかった。

官渡で動功を誇る許攸は、曹操と同席しても折目を正さず、曹操の幼時の字を呼んで、「阿瞞、きみがわたしを手に入れなかったなら、冀州も得られなかった」と言った。曹操は笑ってそのとおりだとは言ったが、内心は彼を嫌悪した。

その後、随行して業の東門を通った際、側の者に「この家の者(曹氏一族)がわたしを得られなかったら、今このように門を出入りできなかったのだ」と言い、これを曹操に告げる者がいて、ついに殺された。


演義

『演義』では、許攸を自分の手柄を許褚に誇ったため、彼に斬り殺されたと脚色している。


評価

荀彧の評価に加え、袁術にも「貪婪淫蕩にして不純の人物」と侮蔑されている。ただ、平原郡の名士陶丘洪は、袁術の言う許攸の欠点を認めつつも、危難に立ち向かい、泥を被ることを厭わなかった人物であると、評価・弁護している。

『武帝紀』は、許攸が曹操に寝返った理由として、袁紹が財貨に貧欲な許攸の欲求を満たせなかったのがその理由だと述べている。