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姓名 | 任峻 |
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字 | 伯達 |
生没年 | ? - 204年 |
所属 | 魏 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | 成侯 |
伝評 | 屯田制に成功して政治的に大きく貢献した人物 |
主な関連人物 | 曹操 韓浩 棗祗 |
関連年表 |
190年 騎都尉となる 199年 長水校尉となる |
任峻、字を伯達といい、司隷河南尹中牟県の人である。子は任先、任覧らがいる。
後漢末、任峻は怯える楊原に対して「董卓に対して誰もが怒りの目を注いでいますが、まだ行動を起こさないのは、情勢がそうさせているのであって、その気がないからではありません。もし明府が口火を切られれば、必ず呼応する者がおりましょう」と言った。
楊原が、ではどうすればいいかと問うと、任峻は「関東十余県には兵士として使える者は一万人を下りません。緊急手段として河南尹の事務を代行し、彼らを率いて用いれば必ず事は成ります」と答え、この旨を朝廷に上表し、兵を発して諸県の守りを固めた。
189年、董卓の許から脱出した曹操が郷里をめざした途中、中牟を通って亭長に疑われ、囚えられたことがあった。
190年、他の諸侯とともに曹操も挙兵、中牟県に通りかかった。人々は誰に従っていいか迷っていたが、任峻は同群の張奮と相談し、群を挙げて曹操に帰服した。任峻は別に一族郎党や食客数百人を集めてそうそうに随従することを請うた。曹操は大いに喜んで任峻を騎都尉とし、さらに自分の従妹を任峻に娶らせて親愛の情を示した。曹操が征伐に向かうと、常に任峻は留守を預かって、軍糧調達に従事した。
当時、饑饉がつづいて軍糧に事かいていた。羽林監として宿衛・侍従の監督にあたっていた頴川群の棗祗は、韓浩とともに屯田制の設置を上申した、曹操は早速、この案を採用して任峻を典農中郎将に任じ、人びとを慕って許の県下で屯田させ、百万石の収穫を得た。以後、群と国に田官を置いて経営を始めると、数年のうちに倉庫は穀物で満ちあふれていた。
199年、当時最大の敵だった袁紹と官渡で対峙していた曹操は、任峻に武器・軍糧の輸送を統轄させた。袁紹軍はたびたび糧道を断とうと攻撃を仕掛けてきた。そこで、任峻は輸送車千輌を一編成とし、十列となって並進させ、その周りを部隊を二重にして護衛させると、敵はあえて近付こうとしなかった。軍国の物資が豊富になったのは、棗祗の発議に始まって、任峻がしっかり整えた結果だと本伝は記している。曹操はそれを高く評価して都亭候とし、領邑三百戸を与え、後に長水校尉に昇進させた。
204年、任峻は亡くなった。曹操はしばらく涙を流して死を惜しんだ。
任峻は心寛く落ち着きがあり、物の道理に通じていたので、その意見を曹操は善しとすることが多かった。饑饉の時は友人の遺児を引き取って面倒を見、父方母方の一族で窮乏している者がいれば援助し、その信義を讃えられた。
『三国志演義』では、典農中郎将に任命された際等で名前が出るのみで、特に活躍は無い。むしろ、彼の配下の倉官として登場する王垕の方が、作中では目立っている。