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姓名 | 徐奕 |
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字 | 季才 |
生没年 | 生没年不詳 |
所属 | 魏 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 威厳と誠実をもって国力を安定させた政治家 |
主な関連人物 | 曹操 崔琰 |
関連年表 |
211年 潼関の戦い 216年 尚書令となる 219年 中尉となる |
徐奕、字を季才といい、東莞の人である。甥に徐統がいる。
戦乱のため江東に避難し、孫策は礼を尽くして徐奕を任命しようとした。徐奕は姓名をかえ、めだたぬ服装で本籍の郡に帰った。
曹操は司空となると、召し出して掾属に任命した。
徐奕は西方の馬超征伐のお供をした。馬超が撃破されると、軍隊は帰還した。当時、関中は征服されたばかりで、まだあまり安定していなかったので、徐奕を丞相長史として留めておき、西の京である長安を鎮撫させた。長安では彼の威厳と誠実さをたたえた。
雍州の刺史に転任し、再び戻って東曹の属官となった。
丁儀などが当時寵愛を受けており、ともに徐奕を陥れようとしたが、徐奕は全く動揺しなかった。
地方に出て魏郡の太守となった。
曹操は孫権を征討したとき、転任させて留府長史とし、徐奕に向かって「君の忠誠は、古人も及ばない。しかしながらいささか厳しすぎる。昔、魏の西門豹はなめし皮を腰にさげて自己の厳しさをゆるめた。そもそも、よく柔弱をもって剛強をおさえること、それを君に期待しているのである。今、君に留府の事を統べしめれば、わしにはもう後顧の憂いはない」といった。
魏国が建てられたのち、尚書に任命され、ふたたび官吏選抜を主宰し、尚書令に昇進した。
曹操が漢中を征討したとき、そのすきに魏諷らが反乱を計画したため、中尉の楊俊は左遷された。曹操は嘆息して、「魏諷に思いきって反乱する気持ちを起こさせたのは、わしの爪、牙となるべき臣に、悪事をとどめ、たくらみを防ぐ者がいなかったためだ。なんとか諸葛豊のような人物を手に入れて、楊俊と交代させたいものだが」といった。桓階は、「徐奕はその人物です」といった。
曹操はそこで徐奕を中尉に任命し、みずから書いた命令書を与えて、「昔、楚に子玉がいたため、晋の文公は心配が去らず、詩経では邦の司直をたたえているが、君のことをいうのであろうか」といった。
在職数ヶ月で、重病にかかり退官を願い出、諌議大夫に任命され、亡くなった。享年不明。
『傅子』にいう。武皇帝はいたって聡明である。崔琰、徐奕は、当時をおおう清潔さ賢者であり、ともに忠誠と信義によって魏の朝廷では目立った存在だった。ところが丁儀が両者の間をひきさいたため、徐奕は官位を失い、崔琰は処刑された。
曹丕は朝臣と会合するたびに、いつも嗟嘆の念をもって徐奕の人がらを思い出した。徐奕には子がなかったので、詔勅によって、その甥の徐統を郎に任命して、徐奕の後嗣をつとめさせた。
陳寿の評によると、厳格さを尊重し、その時代の名士となった、とたたえている。
『魏書』によると、ある人が徐奕に向かって「だいたい、史魚のただしさと、キョ伯玉の知と比べてどちらが上と思うかね。丁儀は現在身分高く羽振りがよい。彼に頭をさげることを考えたほうがよろしいぞ」といった。徐奕は、「曹公の聡明高徳をもってすれば、丁儀は長い間そのみせかけの行為をつづけていられようか。それに不正をもって君に仕える者に対しては、わしは身を守ることができる。きみはどうして他の事を引き合いに出してわしをいましめるのだ」と言い返した。