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姓名 | 張昭 |
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字 | 子布 |
生没年 | 156年 - 236年 |
所属 | 呉 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | 文侯 |
伝評 | 内事は張昭、外事は周瑜で国政を支えた政治家 |
主な関連人物 | 孫権 孫策 周瑜 |
関連年表 |
208年 赤壁の戦いに反対する 229年 輔呉将軍に任命される |
張昭、字を子布といい、彭城の人である。甥は張奮、子は張承、張休らがいる。
若いときから学問を好み、隷書に巧みであった。白侯子安から『左氏春秋』を教授され、博くさまざまな書物を読んで、琅邪の趙イクや東海の王朗と並んで名声をはせ、互いに親しい交わりを結んだ。二十歳前後で孝廉に推挙されたが、都には出なかった。
王朗とともに旧君の諱を避けることに関して議論をかわし、陳琳ら同郷の目はしのきく人々は、揃ってその議論を称賛した。
刺史の陶謙が張昭を茂才に推挙したが、その推挙に応じなかったため、陶謙は自分を軽んじているのだと考え、張昭は囚われの身となった。趙イクが全力をあげて救出を計ったので、やっとのことで釈放された。
天下が大いに乱れると、難を逃れて揚州の地に移住すべく、張昭は江南へ渡った。張昭が北方の士大夫たちから手紙をもらうと、いつも彼の手柄をほめるものばかりだった。張昭は、そうした手紙のことを黙って知らせずにいようとすれば、北方の人々とひそかに連絡を取っていることになるのが心配であり、これを公表すれば自慢をすることになって宜しくないということで、どうすれば良いか決断しかねていた。
孫策はこのことを聞くと、愉快げに笑って、張昭を管仲に例えて賢才とし、登用したいことを望んだ。孫策は張昭を手に入れるとひどく喜んで、上表して校尉に任じ、師友の礼をもって彼を遇した。
孫策は、その臨終のとき、弟の孫権を張昭に託した。張昭は百官たちを取りまとめ、孫権を呉の主君として立てると、みずからはその輔佐にあたることになった。漢の王室に孫権が孫策のあとを継いだことを上表して知らせるとともに、孫策のときに変わらず、それぞれの職務にはげむようにと命じた。
張昭は、孫権のもとでも長史をつとめ、以前と同様の職務を与えられた。のちに劉備が上表して、孫権に車騎将軍の任務を与えると、張昭はその軍師となった。孫権とは折り合いが悪く、また張昭自身も剛直で頑固な性格であったことから、孫権と度々対立した。
孫権が丞相を置こうとしたとき、人々の意見はみな張昭が適任だとのことで一致した。孫権は、百官の取りまとめは責務で重大であり、張昭を丞相に任ずるのは優遇することにならないとして、そういって孫邵を丞相に任じた。
のちに孫邵が死去すると、百官たちはふたたび張昭を推挙した。孫権は、張昭は剛直な性格で、感情的なゆきちがいがおこり、丞相に任命することは彼のためにならない、として顧雍を任用した。
孫権が征伐に出かけるときには、いつも張昭に留守をあずけ守りを固めさせて、幕府の事務を処理させた。のちに黄巾残党が乱をおこすと、張昭が討伐にむかってこれを平定した。
孫権が合肥へ遠征したときには、張昭に命じて別働隊として匡キを打たせ、さらに部将たちを指揮して、豫章の賊徒の周鳳たちを南城に攻めて、これを打ち破った。それ以降は張昭がみずから軍を指揮することはまれで、いつも孫権の側近にあって、参謀としての任にあたった。
孫権が皇帝を号するようになったあと、張昭は、年を取って病気がちだということを理由に、その官位とあずかっていた所領や兵士たちとを朝廷に返上した。そこで改めて彼に輔呉将軍の位を与え、朝廷での席次は三司につぐものとされた。
孫権は、公孫淵が呉の配下に付きたいと申し出てくると、公孫淵に燕王の位を授けようとした。張昭がこれを諌めて、公孫淵は魏からの討伐を恐れて、呉に忠誠を誓うはずがないといった。孫権はこの意見を反論したが、張昭はますます頑固に自説を主張するばかりであった。孫権は気持ちをおさえきれず、刀をつかむと怒って、態度を改めるよういった。張昭は孫権をじっと見つめると、後事を託されたときのこと話し、涙を流した。孫権は刀を投げ出して御座より下り、張昭と向かいあって泣いた。
しかし結局、孫権は公孫淵に使者を出発させた。張昭は、自分の意見が用いられなかったことに腹を立て、病気と称して参内しなくなった。孫権はこれを恨みにおもい、土でもって張昭の家の門を塞いだが、張昭のほうでも内がわから土でもって門を封じた。
公孫淵は、はたせるかな呉の使者である張弥と許晏を殺害した。孫権はみずからの誤りを覚って、張昭の気持ちをやわらげようとして幾度も詫びを入れたが、張昭はがんとしてひきこもったままであった。宮廷から出たおり、その門前まで行って、張昭に声をかけたが、病気が重いからといって面会を断った。孫権は、その門に火を付けておどかそうとしたが、張昭はますます固く門を閉じた。孫権はその火を消させたあとも、久しく門の所を立ち去らなかった。
張昭の息子たちがみなして張昭をかかえてつれ出してくると、孫権はその彼を車に載せて宮中にかえり、深くみずからを責めて謝罪した。張昭はやむをえず、これ以降は朝会に加わるようになった。
236年、張昭は死去した。享年81歳。遺言して、幅巾を冠らせ、飾りのない棺を用い、普段着のまま葬るようにと命じた。
孫策は臨終のさいに、張昭に向かって「もし仲謀に仕事に当たる能力がないようならば、あなた自身が政権を執ってほしい。たとえ事がうまく運ばなかったとしても、あわてることなく西方に戻れば、安全は確保されて心配は無用であるのだ」といった。
張昭は学者としても名高く、呉の朝廷の儀礼制度を制定する中心となった。また、『春秋左氏伝解』や『論語注』など、多くの著作を残したと言われている。
『江表伝』にいうと、孫権は、帝位についたあと、百官たちを呼び集めた席で、自分が帝位につけたのは周瑜のおかげなのだと述べた。張昭は、手に持った笏を挙げて自分もその手柄を称賛する意見を述べようとしたが、張昭が口を開くまえに、孫権がいった、「もし張公(張昭)の計に従っていたなら、いまごろは人から食物をめぐんでもらっていたであろう」張昭は大いに恥じ入り、床につっぷしてひや汗を流した。張昭は、厚いまごころを持ち邪心もなく、大臣として恥かしくない行動を取ったので、孫権は彼を敬して重んじたのではあるが、しかし結局、張昭を宰相にすることがなかったのは、思うにかつて彼が周瑜や魯粛らの魏に対する徹底抗戦するという意見に反対したことを心よく思っていなかったからなのであろう、としている。
これについて裴松之は、張昭が曹操を迎え入れるように孫権に勧めたというのは、遠い将来を見通したうえでのことだったのではなかろうか。そもそも張昭が立派な徳を備え厳正な態度でもって、孫氏のもとに臣下として仕えるようになったのは、歴史の流れが困難な時期にさしかかり、人々の苦しみがひどくなりはじめた時期にあたって、孫策から孫権へとつながる呉の主君には、みずからが輔佐をなすに足るだけの才能や見通しがあると考えたればこそであった、と述べている。
張昭の容姿は謹厳で堂々としており、孫権はつねづね「張公と話すときには、いいかげんなことはよういわない」といっていた。
孫権は酒好きで、宴会では酔いつぶれた配下に水をかぶせ、台から転げ落ちるまで飲ませようとしたが、張昭はものもいわず立ち去った。孫権が後を追い、「皆で一緒に楽しもうとしているだけなのに、なぜあなたは腹を立てるのか」と言うと、張昭は「むかし紂が糟丘酒池を作り、長夜の飲(さかもり)をいたしましたが、その時にも楽しみのためにやっているのだと考え、悪事を考えているなどと考えてはおりませんでした」と反論した。孫権は恥じて宴会を中止した。
孫権は虎狩が好きで、ある時虎に反撃され馬の鞍に飛びつかれた。それを見た張昭は「君主は優秀な群臣を使いこなすもので、野原で獣と勇を競うものではない」と孫権を叱責した。これ以後、孫権は馬上で虎を射るのではなく、箱に穴を開けた車(木製の装甲車のようなもの)から虎を射て遊んだという。