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後漢伝


駱統 公緒らくとう こうしょ

姓名駱統
公緒
生没年193年 - 228年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評若くして行政手腕を発揮し、夷陵の戦いで功績を挙げた人物
主な関連人物 孫権 陸遜 
関連年表 202年 騎都尉となる
222年 夷陵の戦い 濡須の戦い

略歴

駱統、字を公緒といい、会稽郡の烏傷の人である。父は、駱俊、子は、駱秀がいる。

父親の駱俊は、官途について陳国の相にまで昇進したが、袁術に殺害された。父親の死後、駱統の生母が再婚をして、華キンの側室となると、駱統はそのとき八歳であったが、父親が目をかけていた食客たちとともに故郷の会稽に帰ることになった。母親はその出発を見送った。

会稽に帰ったあと、父親の正夫人であった義母に謹んでよく仕えた。その当時、飢饉があって、郷里の人々も遠くから流亡してきた人々も、その多くが苦しい生活を送っていた。駱統は彼らのことを考えて、食事も充分にとらなかった。彼の姉は、思いやり深く、道をはずれたことはせぬ女性で、夫に死に別れたあとお里に帰り子供もなく暮らしていたが、駱統のそうした様子を見てかわいそうに思い、幾度もその理由を尋ねた。駱統は、「人々が粗末な食事すら充分に食べられないとき、私だけがお腹いっぱい食事する訳にはいかない」といった。姉は自分の手元にあった栗を駱統に与え、また母親にもそのことを話した。母親も彼の行動を立派だとして、人々に食料を分け与えることを許可した。このことがあって、駱統の名前は、人々の間によく知られるようになった。

孫権が将軍として会稽太守の任にあたることになると、駱統は年が二十で、試験的に烏程の相に任ぜられた。当時、烏程の治下には民戸が一万以上あったが、住民たちはそろって彼の統治が思いやり深く、またすじめの立ったものであることを称賛した。孫権は彼が烏程で治積を挙げたことを喜び、召し寄せて功曹に任じ、騎都尉の職務に当たらせるとともに、従兄の孫輔の娘を彼に嫁がせた。

駱統は、孫権の施策の不足部分を補い正すことに心を注ぎ、なにか見聞したことがあると、夜中でもかまわず上言した。つねづね孫権に勧めて、賢者を尊重し立派な人物と親しく交わって、彼らの批判を積極的に求めるように、臣下たちをもてなされるときには、一人一人を別々にご前に呼ばれ、彼らの生活の様子を尋ね、親密な気持で対して、彼らが思うところを存分に述べるようにいざなわれるように、また彼らが願っているところを察知し、みなが君恩に感動し主君との関係を大切にし、心からご恩返しをしたいと願わせるようにされねばならない、と説いた。孫権はこの意見をいれて実行に移した。

地方に出て建忠中郎将の任につき、弓勢三千人の指揮を任された。凌統が死んだあとには、凌統の配下にあった兵士たちの指揮をまかされた。

この当時、人々はしばしば軍役にかり出され、そのうえに伝染病も流行して、民戸は減少していた。駱統は上疏をして、現状の憂いを嘆願した。孫権は、駱統の言葉に心をうたれ、その意見に深い注意をはらった。

陸遜の配下として蜀の軍を宜都で打ち破った功績によって、駱統は偏将軍に昇進した。

黄武の初年、曹仁が濡須に攻撃を加え、別将の常雕(じょうちょう)らに命じて中洲を襲撃させて来たとき、駱統は厳圭らと共同してこれを防ぎ、打ち破った。この功績で、新陽亭侯に封ぜられ、のちに濡須の督となった。

228年、若くして死去した。享年36歳。


評価

駱統は、しばしば時務についての適宜の処置を上陳し、通算して数十たびも上書を行ない、申し述べるところみな立派なものであった。

陳寿の評では、大義を高くかかげ、言葉は鋭く道理を尽くした意見を述べたのであるが、孫権という主君の時代にあたったがため、その才能を十分に開花させることができずに終わった、としている。


演義

小説『三国志演義』では、呉の文官として名前が登場するのみで、彼の立派な功績は一切語られていない。