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姓名 | 陸瑁 |
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字 | 子璋 |
生没年 | ? - 239年 |
所属 | 呉 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 学問を好み義に篤く、人を助けては信頼され、孫権に重要された政治家 |
主な関連人物 | 孫権 陸績 陸遜 |
関連年表 |
231年 議郎・選曹尚書となる |
陸瑁、字を子璋といい、呉郡の呉の人である。父は陸駿、兄は陸遜、子は陸喜らがいる。
若いときから学問を好み、また義に篤かった。陳国の陳融、陳留の濮陽逸、沛郡の蒋簒、広陵の袁迪らは、みな後ろ盾もなく貧しい境涯にありつつも志だけはしっかりと守っていたのであるが、こうした人々が陸瑁のもとにたよってやって来ると、陸瑁は少ない物も彼らに割き与え、おいしいご馳走があれば彼らと分けあって、彼らと生活の苦楽を共にした。
同郡出身の徐原は会稽に住まいしており、彼とは平素まったく面識がなかったのであるが、その徐原が死に臨んで手紙をのこし、あとにのこす幼い子供たちのことを陸瑁に託すと、陸瑁は、徐原のために墳墓を作ってやり、その子供たちを手もとに引き取って教育を与えた。
また陸瑁の叔父にあたる陸績が若くして死に、のこされた二人の息子と一人の娘とは、みな数歳にもならなかったのであるが、陸瑁は彼らを迎え取って養い育て、立派に成長したあと、もとの家にもどらせた。州や郡の役所から招聘や推挙があったが、彼は一切、それに応じなかった。
この当時、尚書の曁エンが華々しく人物評価を行っており、三署に属する官僚たちをランクづけ、人々の愚昧さからくる失策を取り上げて、その程度降格すべきであるかということを公表したりしていた。陸瑁は、彼に手紙を送って、善悪をはっきり分け隔てることは容易ではないとして忠告した。曁エンは、この意見を聞き入れることができず、結局は失脚を招くことになった。
231年、公の馬車が遣わされて陸瑁は召し出され、議郎・選曹尚書の官を授かった。
孫権が、公孫淵がペテンにかけて裏切ったことに腹を立て、みずから遼東まで軍をひきいて攻め込もうとしたとき、陸瑁は上疏をし諌めて、「公孫淵は遠く離れて裏切る行為は辺境の蛮族のいつものやり方であり、遠くの敵より近くの敵をほったらかされていては本来の計りごとではないので最善の策ではありません。また、三越の賊徒がその隙を狙って蜂起するでありましょう」と述べた。孫権は、この意見に同意しなかった。
陸瑁は、重ねて上疏して、「異民族を服すためには、まず国内の姦雄たちを除かれ平穏にし、全軍に休養を与えられ、ご聖慮をめぐらされ、将来の大方針を定めていただきますよう」孫権は、陸瑁の上書をふたたび読んで、その言葉と道理がまったくもっともであることに心を喜ばせ、遠征計画は取り止めとなった。
239年、陸瑁は死去した。享年不明。
陳寿の評にいうと、義に篤く主君を諌め正すことにつとめ、立派な人物たちから称賛を受けた、としている。
陸瑁と同郡の出身の聞人敏が都でもてはやされ、ちゃんとした素養のある人物たち以上に評価されたことがあった。ただ陸瑁だけは彼をそれほどの人物だとしてはいなかったのであるが、はたして陸瑁のいったように聞人敏はやがて馬脚をあらわした。