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姓名 | 周魴 |
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字 | 子魚 |
生没年 | 生没年不詳 |
所属 | 呉 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 石亭の戦いで曹休を誘き出し、勝利に貢献した人物 |
主な関連人物 | 孫権 陸遜 胡綜 |
関連年表 |
221年 丹楊西部都尉となる 227年 昭義校尉となる 228年 裨将軍・関内侯となる |
周魴、字を子魚といい、呉郡の陽羨の人である。父は周賓、子は周処らがいる。
若いときから学問を好み、孝廉に推挙されて、寧国県の長となり、のちに転じて懐安を治めた。
銭唐一帯に勢力を張る大頭目の彭式らが多数の人数を集めて略奪をはたらくと、周魴は、銭唐侯の相に任じられ、ひと月ほどの間に彭式とその一味の者たちの首級を取った。この功績により丹楊西部都尉に昇進した。
黄武年間に、ハ陽の大頭目である彭綺が反乱を起こし、ハ陽郡治下の城々を武力で占領すると、周魴は、ハ陽太守に任じられ、胡綜と協力しつつこれに討伐を加えて、まもなく彭綺を生け捕りにし、その身柄を武昌に送った。この功績により昭義校尉を加官された。
中央から指令があり、山越の旧族や名将たちの中の、北方の敵方にもよく名の知られているものと秘かに連絡をつけ、彼らに、詐って魏に内通するように見せかけて、魏の大司馬で揚州牧である曹休をおびき寄せさせるようにと命じられた。周魴は、それに答え、民衆たちの頭目の小悪人たちでは、計画を任せて行わせるには任が重すぎて、事がもれてしまう心配があり、曹休をおびき寄せることはむつかしいであろう、そうするかわりに自分の身内の者に七通の手紙を持たせてやって、曹休を誘い出すことを許可して欲しいと、願い出た。
周魴は手紙を送ると同時に、別に孫権に対しても秘かに上表をし、孫権から採可する返答があって、周魴の建策は実行に移された。
曹休は、はたして周魴の言葉を信じて、歩兵と騎兵あわせて十万を引き連れ、輜重輸送の車を多数つらねて、まっすぐに皖へと軍を進めて来た。周魴のほうでも軍勢を総動員し、陸遜の指揮のもとに曹休の軍に側方から攻撃をかけてこれを分断した。曹休の軍はずたずたになって瓦解し、斬られたり捕虜になったりした者が何万という数にのぼった。
周魴がちょうど密計を建策したころ、しばしば中央から郎官が遣わされ、詔をもって諸般の事態について詰問がなされた。周魴はそのために郡の役所の門の所にまで出かけると、剃髪して謝罪したころがあった。曹休はこのことを伝え聞いていたため、周魴が呉にそむいて内応したいと申し出てきたことに疑いをいだかなかったのである。
事が成功して軍が凱旋すると、孫権は諸将たちを集めて盛大な宴を開いた。酒も酣となったとき、孫権は、周魴にむかって、「あなたは剃髪をしてまで義のために尽くし、わたくしのために大事を成功に導いてくれた。あなたの功名は、竹帛(立派な書物)に留められ後世に伝わるにちがいない」といった。この功績によって周魴は、裨将軍が加官され、関内侯の爵位を賜わった。
不服従民たちの頭目である董嗣が険阻な地にねじろを置いて強盗略奪を働き、豫章と臨川の二郡はともにその被害を受けていた。吾粲と唐咨とが三千の兵を指揮してこれを防ぎ戦ったのであるが、何ヶ月たってもそのねじろを落とすことができずにいた。周魴は、上表して、いったん軍事行動はやめ、情況を見つつ自分の一存で処理することを許してほしいと願い出た。それが許可されると周魴は、間諜をおくり出し、間諜にはしかるべき策略を授けて、董嗣にさそいかけ、その隙をうかがってこれを殺害させた。董嗣の弟は震え上がり、武昌まで出て来て陸遜に投降し、以後は平地におり、行ないを改めて従順にしたいと願い出た。それ以後、あたりの数郡には、心配ごともなくなった。
周魴は、郡の統治にあたること十三年にして死去した。享年不明。
徐衆の『異同評』によると、曹休をおびき寄せた建策について、「臣下たる者が手柄を立て忠義をあらわす、そのための道は一つに限られぬにしても、それぞれが守るべき分というものがあるのだ。部将として戦鼓の鉢を執るのであれば、生命を投げ出して事にあたるのが正しい道であり、ある土地の統治にあたらんとするのであれば、みずからの器に応じて力を尽くし、他に迷惑をかけぬことこそ正しい道であって、生命を投げ出すにもその所を得ておらねばならず、また何よりも自分の職務に誠実であらねばならない。しかるに周魴は、郡守であって、その職務は住民を治めることにあったのであるが、主君の命令にはずれ、自分勝手に敵をおびき寄せようとくわだて、身体髪膚を傷つけ剃髪をしてまで、功名を求めようとした。事は成功して爵位は授けられはしたが、君子の称賛は得られないのである」としている。
郡を統治した太守としては信賞必罰の方針を貫いて、周魴の威厳と恩愛とがともに郡内に行き渡っていた。
裴松之の注釈によると、董嗣討伐の件について考えるに、孫亮の太平二年(257)に始めて臨川郡が立てられたのであって、この当時、まだ臨川郡はなかったと指摘している。
小説『三国志演義』では、周魴が剃髪して呉に攻め込んでくれるように嘆願してきたため、曹休もその偽の投降を信用したというような脚色がなされている。
江蘇省宜興市(呉郡の陽羨)には、周魴と周魴の一族の墓が発見されている。墓はすべて通路のある磚室墓となっており、中からは精巧な作りの磁器や金銀の服飾品など、歴史的に見て非常に貴重な副葬品が多数発掘されている。