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陸遜憤死

後漢伝


潘濬 承明はんしゅん しょうめい

姓名潘濬
承明
生没年? - 239年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評若いころから聡明で機敏に対応し、士人から評価された人物
主な関連人物 孫権 
関連年表 219年 輔軍中郎将となる
229年 少府・太常となる

略歴

潘濬は、字を承明といい、武陵群の漢寿の人である。妻は蒋琬の妹で、子は潘翥・潘祕・女子一人(孫慮の妻)らがいる。

二十前後のとき、宋仲子から学問を受けた。まだ三十にならないとき、荊州の牧であった劉表からまねかれて荊州配下の江夏群の従事に任ぜられた。この当時、沙姜県の長は賄賂を取り汚職を行って掟をないがしろにしていた。潘濬が彼が法に照らして死刑に処すると、江夏群は一群をあげて彼の処分の厳正さに震撼し心を引きしめた。のちに湘郷県の令となったが、その統治ははなはだ評判が高かった。

劉備が荊州を治めるようになると、潘濬を治中従事に任じた。のちに劉備が蜀に入ると、彼を荊州に留めて州の事務の処理にあたらせた。

孫権は、関羽を殺し、荊州の地を併合すると、潘濬は輔軍中朗将に任じて、兵士の指揮をまかせた。のちに彼は奮威将軍に昇進し、常遷亭侯に封ぜられた。

孫権が皇帝を称するようになると、潘濬は少府に任ぜられ、爵位を進めて劉陽侯に封ぜられ、やがて太常に昇進した。

五ケイの異民族の者たちが反乱をおこあし、互いに連絡を取り合って呉に反抗すると、孫権は潘濬に仮節を授け、多くの軍団を纏め率いてこれの討伐にあたらせた。潘濬は、手柄を立てた者には必ず賞を与え、軍法を犯す者は容赦なく処分した。〔そのようにして討伐を行った結果、戦果を挙げて〕斬首したり生けどりにした敵は、何万という数にのぼった。これ以後、異民族たちの勢力は衰えてゆき、この地域一帯は平穏になった。

武陵の部従事である樊チュウが異民族のものたちに誘いをかけ、武陵群を挙げて劉備に帰属しようとくわだてた。関係の地方から、督(地方の駐屯軍の指令官)を派遣し一万の軍を率いて樊チュウの討伐に向かわせてほしいとの上言があった。孫権はその上言を認可せず、特に潘濬を召し寄せてその対処法について尋ねた。潘濬が答えた、「あなたはなぜ事態を軽んじなるのか。」潘濬がいった、「樊チュウは南陽の旧い家がらで、口先はよく働きますが、実際のところはすじ道だてて事を弁ずるような才はございません。臣の知っております例で申しますれば、樊チュウはあるとき、同郷の者たちを招いて食事をふるまったことがございましたが、日中になっても食事の準備ができず、十回あまりも立ち上がってみずから台所をのぞきに行ったのでございます。これも、こびとの身長はその身体の一部を見ただけで分かるという例で樊チュウの人物のほどが知られるのでございます。」孫権は大いに笑って、彼の意見を納れ、すぐさま潘濬に五千の兵を率いて討伐に向かわせたが、その言葉どおり樊チュウを斬って謀反を平定するこができた。

芮玄が死去すると、潘濬が芮玄の配下にあった兵士たちをあわせてあずかり、夏口に駐屯した。

226年、驃騎将軍の歩隲は、漚口に駐屯すると、あたりの諸郡において兵士の募集を行って配下の軍勢いを増強したいと願いでてきた。孫権がこのことについて潘濬の意見を求めると、潘濬はいった。「大きな勢力をもつ部将が民間にありますと、あたりの力を吸い尽くし秩序を乱して損害を与えます。加うるに歩隲には名声と威勢とがあって、各地の役所は彼の気に入るようによりはからうでありましょうから、彼の申し出はご許可になってはなりません。」孫権はこの意見に従って〔歩隲の願いでは許さなかった〕。また中郎将であったよし章出身の除宗は、評判の高い人物であって、京師に出て、孔融と交わりを結んだこともあった。しかし彼は文人気質で放誕な性格であって、その手下の者たちを放任した結果、手下の者たちは掟を守ろうとはせず、人々の嘆きのたねとなっていた。潘濬は、この除宗をひとおもいに斬刑に処した。潘濬が法を重んじて人々の間の評判などを気にせぬのは、みなこうした例のごとくであった。

230年、投降者の隠蕃は、弁舌がさわやかなところから有力者たちに喜ばれ、潘濬の息子の潘翥も彼と交際を結び、食料を援助したりしていた。潘濬は、このことを聞くと大いに腹を立て、手紙を送って潘翥を責めていった、「私は国家の厚いご恩を受け、生命を捧げてご恩がえしをしたいと願っておる。おまえたちも都において、慎重に身を処して、賢者に親しみ立派な人物に心を寄せるべきであるのに、投降者などと交わり、食料の援助をしたりするとはなんとしたことだ。遠方にあってこのことを聞いたとき、心はおののき顔はあつくなって、何十日も心の憂いは解けぬままだ。手紙が着きしだい、すみやかにこちらから遺わした使者のもとに出むき、杖たたき一百の罰を受け、また急いで贈った食料の返還を求めるように。」その当時の人々はみな潘濬のこうしたやり方をいぶかしんだのであるが、潘翥がはたして謀反をはかって一族皆殺しになると、人々は彼は先見の明に感服した。

234年、潘濬の妻の兄にあたる零陵の蔣琬は、蜀の大将軍となっていた。武陵大守の衛旌に太子、潘濬との仲をさこうとする者がいて、次のようにいった、「潘濬はひそかに使者を蔣琬のもとに遺って連絡を取り、蜀のほうに身を寄せる下ごしらえをいたしております」衛旌を召還して、その官を免じた。

以前から、潘濬は陸遜とともに武昌にその軍を駐め、共同して旧都である武昌を拳管していたのであるが、五谿への遠征から戻るとふたたびその役目にもどった。

この当時、校事の呂壱がほしいままに権力をふるい、丞相の顧雍や左将軍の朱拠らの過失を責める上奏をしたため、彼らはみな軟禁状態にあった。黄門侍郎の謝コウが話のついでに呂壱に尋ねた、「顧公の事件はいかがなりましょう。」呂壱が答えた、「処分はまぬがれまい。」謝コウが重ねて尋ねた、「もしあの方が官を免ぜられますと、誰がそのあとを継ぐことになりましょう。」呂壱が答えずにいるうちに、謝コウがいった、「潘太常どのがそのあとを継がれることになるのではないでしょうか。」呂壱は、ややあってからいった、「あなたのいわれるようなところであろう。」謝コウいった、「潘太常どのはつねづねあなたに対して歯噛みしておられます。ただ遠くにあるためなにもできずにおるのです。今日、顧公のあとを継がせられれば、明日にはあなたに噛みついてまいりましょう。」呂壱は心中大いに畏れて、そのまま顧雍の事件はうやむやになった。潘濬は、朝見を求め、建業に出てきて、言葉を尽くして呂壱を信任すべきでないと強く諌めようとした。

建業についたところで、太子の孫登がすでにしばしばこのことを上言したが聴き入れられなかったと聞くと、潘濬は、百官たちをすべて招き集め、その席上、みずから刃をとって呂壱を殺し、身をもって国家のわざわいを除こうと考えた。呂壱は、ひそかにこのことを伝え聞くと、病気を理由にしてその会合には出席しなかった。潘濬はこの計画が失敗したあとも御前に出るたびに必ず呂壱の悪辣さを陳べたてたのであった。そのために呂壱に対する寵愛もだんだんと衰え、のちにはけっきょく、誅殺されることになった。孫権は呂壱を信任したことについて罪を認めてみずからを責めるとともに、自分を正面から諌めなかった重臣たちをも問責した。

239年、潘濬は死去し、息子の潘翥がその爵位を嗣いだ。潘濬の娘は、建昌候孫慮の夫人となった。


逸話

『江表伝』にいう。孫権が荊州を降すと、それまで蜀に属していた荊州の部将や役人たちはみな呉に帰順したのであるが、潘濬だけは病気と称して孫権に目通りしようとしなかった。孫権は、人を遣ってショウ(大きなベッド)を彼の家に運びこみ、その上に彼を乗せて担いでこさせた。潘濬は、ショウの席の上につっぷしたまま起き上がろうとはせず、涙をしとど流し、身を世もあらず悲泣した。孫権は、その彼をなぐさめるべく言葉をかけ、字を呼びかけていった、「承明どの、昔、観丁父はジャクの国を亡ぼされて俘虜となったのであるが、武王はその彼を軍師に任じた。〔また〕彭仲爽は申の国を亡ぼされて俘虜となったが、文王はその彼を令尹(楚国の宰相)に任じた。この二人は、あなたと同郷の荊の地の先賢であるが一度は捕囚の憂き目を見ながら、のちにともに抜擢された、楚の国の名臣となったのだ。あなた一人がこうした例にそむいて、気持ちをやわらげようとされぬのは、私に古人のような度量がないと思われてのことであろうか。」側近の者に命じて手巾で彼の顔を拭わせた。潘濬は、身をおこしてショウをおりると拝謝した。その場で彼を治中に任じ、それ以後、荊州の軍事全般についてつねに彼の意見を求めた。

孫権はしばしば雉狩りに出かけた。潘濬がそのことで孫権をを諌めると、孫権はいった、「あなたがおらなくなったあと、ときたまちょっと出かけるだけで、昔のように機会のあるごろに行っておるのではない。」潘濬がいった、「天下はまだ平定されず、ご主君としてのおつとめも?多でございます。雉狩りは不急のことでございますし、もし弓の弦が切れて矢はずがこわれても、お身体を損ずることとなります。どうか特に臣めにめんじておやめくださいますように。」潘濬が退出したあと、雉の羽で作った翳が昔どおりに置かれているのを見て、孫権はみずからそれを取りのけてこわした。孫権はそれ以後ぱったりと雉狩りにでることをやめた。


評価

『呉書』にいう。潘濬は、聡明な資質をそなえ、人との対応を機敏で言葉は条理だっていた。山陽の王粲は、彼に会ってその人物を高く評価した。このことから彼の名が知られるようになり、群の功曹に任ぜられた。

陳寿の評にいう。潘濬は、私利を求めず国家のために尽くして大胆に事を行った。

『季漢輔臣賛』では糜芳・士仁・郝普と並び、呉蜀二国において裏切り者・笑い者との評を得た。