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曹操と劉備の英雄論

後漢伝


呂蒙 子明りょもう しめい

姓名呂蒙
子明
生没年178年 - 219年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評総司令官として荊州奪還に功績をあげた文武両道の武人
主な関連人物 孫権 孫策 魯粛 
関連年表 195年 山越討伐
208年 江夏征伐
209年 南郡の戦い
214年 皖城の戦い
215年 荊州会見
216年 濡須口の戦い
219年 荊州平定

略歴

呂蒙、字を子明といい、汝南郡の富坡の人である。子は、呂ソウ、呂覇、呂睦。

年少のころ江南に渡り、姉の夫であるトウ当のもとに身を寄せた。トウ当は孫策の部将となり、しばしば山越の討伐を行なった。呂蒙は、年が十五、六であったが、こっそりトウ当が賊の攻撃にむかうのについて行ったことがあった。

当時、トウ当のもとにいた役人が、呂蒙がまだ年端も行かぬことから、軽侮していたので、呂蒙はかっと腹を立て、役人を斬り殺すと逃走した。そのあと、出頭して自首し、間に立って弁明をしてくれる者がいた。孫策は、呂蒙を呼び出して引見し、その非凡さを見てとると、召し寄せて自分の側近に置いて使うこととした。

数年ののち、トウ当が死ぬと、張昭の推薦があって、呂蒙がトウ当の役目を引き継ぎ、別部司馬に任ぜられた。

孫権が孫策のあとを継いで、呉の勢力をまとめてゆくことになったとき、呂蒙は軍勢をひどく目立たせ、兵士たちもよく訓練してたので、兵士を増加された。

孫権に従って丹陽の討伐に加わり、いたる所で戦功を立て、平北都尉に任ぜられ、広徳県の長の職務にあたった。

黄祖の討伐に向かったときのこと、黄祖は、都督の陳就に命じ、水軍を動かして呉の軍を迎え撃たせた。呂蒙は、先鋒を指揮して、みずから陳就の首級を挙げ、勝ちに乗じて黄祖の城に攻めかかった。黄祖は城を捨てて逃亡したが、追撃して捕虜にした。呂蒙は、功績として横野中郎将に任命された。

この年には、さらに加えて、周瑜や程普らとともに、軍を西に進めて曹操を烏林(赤壁)に破り、南郡で曹仁を包囲した。

周瑜が甘寧に命じ、夷陵を占拠させると、曹仁は、配下の軍を分けて甘寧に攻撃をかけて、甘寧は危機に陥った。呂蒙は、リョウ統に留守させて、救援にむかう献策を進言した。周瑜はこれを採用して、甘寧を救出して、曹仁を敗走させて、南郡を占拠し、荊州を平定した。凱旋すると、呂蒙は、偏将軍に任命された。

周瑜は死去して魯粛が後任にあたることになった。魯粛は呂蒙を軽侮していたが、呂蒙は、関羽から荊州を奪還するための五つの策略を献言した。魯粛は、呂蒙と友達になることを約束したあと別れた。

呂蒙は孫権に従って、曹操の進出お濡須で防ぎ止める作戦に参加し、しばしば優れた計略を上言した。加えて、川の落合いを挟んで堡塁を作るようにすると、曹操は川を下って軍を進めることができず、退却した。

曹操が、朱光を盧江太守に任命して派遣し、皖に本営を置いて、水田の開墾と、間者を放って魏に内応させようと計った。呂蒙は孫権に従って、皖へと軍を動かし、皖城を落とすための計略を進言した。甘寧を突撃隊長に任じ、呂蒙は精鋭をひきいて続いた。城壁を乗り越えて、朝のうちには敵を敗退させた。呂蒙はそのまま盧江太守に任命された。

この当時、劉備は関羽に命じて守りを固めさせ、荊州全域を蜀が一人占めしようとしていた。孫権は、呂蒙に、西方に軍を進めて長沙・零陵・桂陽の三郡を奪取するようにと命じた。呂蒙は呂岱・孫茂・鮮于丹・孫規らとともに長沙・桂陽を降伏させ、トウ玄之を使者として派遣して零陵太守の郝普を降伏させた。その後、関羽と魯粛が会談し、孫権と劉備は和解、孫権は長沙・桂陽を領有し、劉備は零陵を領有することとなった。

荊州の戦役から軍をもどったあと、ひきつづいて合肥への遠征が行われた。張遼らの襲撃を受け、呂蒙とリョウ統とは、生命をかけて孫権を守った。

のちに曹操がふたたび濡須へ大軍を進めてくると、孫権は呂蒙を督に任じ、堡塁により、強力な弩一万張をその上に配備して、曹操の進出を防がせた。曹操の陣営がまだ築き終わらぬうちに、呂蒙は攻撃をかけて撃ち破ったので、曹操は退却した。この功績で、左護軍・虎威将軍の位を授かった。

魯粛が死去すると、呂蒙が西方へ軍を移して陸口に駐屯することになり、魯粛の軍の兵馬をすべて呂蒙の配下に編入された。孫権は、呂蒙に徐州奪取するという計画をどうか意見を求めた。呂蒙は、荊州を先に占拠して、有利な形勢をさらに確実にすることを進言して、孫権は全面的に賛同した。

のちに関羽が、樊の討伐にむかうと、呂蒙は病気と偽って南郡から建業に帰ったとした。関羽は、これを信じて、襄陽の守備兵を減らして、兵を樊へと向かわせた。孫権は、これを聞くと、すぐさま軍を動かし、呂蒙は先鋒として荊州に向かわせた。すると、留守をあずかっていた士仁と麋芳がともに降服をした。関羽の軍吏や兵士たちは、みな自分の家族が心配であったが、使者が無事であることを知ってから、関羽の軍は四散して、関羽は孤立無援となった。関羽は、麦城に走り立てこもった。孫権が、朱然と潘璋に命じて関羽の逃げ道をふさがせたところ、ほどなく関羽父子がそろって捕虜となった。このようにして、荊州は平定された。

荊州平定の功績により、呂蒙は南郡太守となって、爵位を封ぜられた。封爵のさたがまだ行われぬうちに、呂蒙は病気を発し、孫権が迎えとった内殿において死去した。享年42歳。


評価

江表伝によると、孫権からは「別に博士になれというのではない、ただ過去のことを多く知っていてもらいたいだけだ」と言われたのだが、呂蒙は結局儒学者にも勝るほどの量の学問を身につけたという。その後、魯粛の後任として荊州に訪れた呂蒙に対し、魯粛があれこれ質問してみると、勉学に励んでいた呂蒙は何でもスラスラと答えてしまったという。このため、魯粛は呂蒙を「呉下の阿蒙に非ず」(「阿」は“~ちゃん”のニュアンスで、「呉にいた頃の蒙ちゃんではない」の意になる)と評し、それに対して呂蒙は「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」(日々鍛錬している者は三日も会わなければ見違えるほど変わっているということ。転じて、いつまでも同じ先入観で物事を見ずに常に新しいものとして見よという意味)と言ったといわれている。なお、「蒙」の字には愚かであるという意味があるため、「阿蒙」という語は、呂蒙の愛称であると同時に、「お馬鹿さん」という一般名詞としての意も含めたダブル・ミーニングであるが、この点が解説されることは皆無である。

陳寿は呂蒙を、勇敢であるとともに軍略を知る、単に武将であるだけに留まらない人物と評している。


演義

小説『三国志演義』では、10月14日に関羽を討ち取り、12月17日にその宴で関羽の亡霊に取り憑かれ、孫権の胸倉を掴み「俺が誰だか分かるか」と言い放つや、「我は、関羽也」と絶叫し、体中の穴という穴から血を吹いて死んだという描写になっている。また人気の高い関羽の仇敵ということで、後世の特に蜀を中心とする創作品では悪役として描かれる事がしばしばある。(例えばNHK『人形劇三国志』では、狡猾かつ非情な老将軍として描かれている。荊州の領民を惨殺したうえ、それを止めさせるために投降した関羽を騙し討ちにして哄笑する描写がある)