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姓名 | 霍峻 |
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字 | 仲邈 |
生没年 | 177年 - 216年 |
所属 | 蜀 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 劉備に抜擢され、葭萌を守り蜀平定に貢献した武将 |
主な関連人物 | 劉備 孟達 霍弋 |
関連年表 |
212年 葭萌を固守する 214年 梓潼太守 裨将軍となる |
霍峻、字を仲邈といい、南郡枝江県の人である。兄は霍篤、子は霍弋がいる。
兄の霍篤は、郷里において私兵数百人を集めた。霍篤が死ぬと、荊州の牧劉表は霍峻に命じてその軍勢を取り仕切らせた。
劉表が没すると、霍峻は軍勢を率いて劉備に帰服し、劉備は霍峻を中郎将に任じた。
巴西の蜀に入り、劉備が葭萌より戻り南に戻って劉璋を襲撃したとき、霍峻を留め置いて葭萌城を守備させた。張魯が楊帛を派遣して霍峻を誘いかけ、共に城を守ろうともちかけたが、霍峻が、「拙者の首は手にいれることができても、城を手に入れることはできないぞ」といったので楊帛は退散した。
後に劉璋の将、扶禁、向存らが一万余人の兵を率いて攻め寄せ、霍峻を包囲すること一年近くに及んだが、陥落できなかった。霍峻の城中の兵はわずか数百人であったが、敵の油断している隙をうかがって、精鋭を選んで出撃し、大いにこれを撃破して、たちまち向存の首を斬った。
劉備が蜀を平定すると、霍峻の手柄を嘉し、広漢郡を分割して梓潼郡を設け、霍峻を梓潼太守・裨将軍に任じた。
官にあること三年(任官された年を一年と数える)にして、四十歳で逝去し、遺体は成都にもち帰られ埋葬された。
霍峻が死去すると、劉備は大いに哀惜の意を示し、諸葛亮に詔勅を下して、「霍峻は立派な人物であるうえに、国家に対して功績があった」と述べて、酒を地にそそいで霊を祭る儀式を挙行した。かくて劉備は郡官を率いて弔祭にのぞみ、そのまま墓の上で宿泊した。当時の人々はこれを名誉だと称えた。
小説『三国志演義』では、劉備の益州討伐で初登場する。この時、劉璋から劉備に付いた孟達の推薦を受け、霍峻は共に葭萌関(正史では葭萌は広漢郡の1県で、また葭萌城と表記している)を守備する。漢中から馬超が攻め込んでくると、孟達と共に劉備に援軍を求めている。
益州平定後も、孟達と組んで葭萌関を守る。魏の張コウが攻め込んでくると、霍峻は堅守を唱えたが、孟達は出撃して大敗。霍峻が劉備に急を告げた所、援軍として黄忠・厳顔の2老将が派遣されてくる。霍峻は孟達と共に諸葛亮の不手際を笑ったが、黄忠・厳顔の活躍で魏軍は撃退されることになる。
なお、これらの記述については、葭萌を守ったという1点を除き、全くのフィクションである。