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| 姓名 | 劉琰 |
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| 字 | 威碩 |
| 生没年 | ? - 234年 |
| 所属 | 蜀 |
| 能力 |
統率:
武力:
知力:
計略:
政治:
人望:
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| 推定血液型 | 不明 |
| 諡号 | --- |
| 伝評 | 晩年の行いにより、人生を終わらせてしまった古参武将 |
| 主な関連人物 | 劉備 諸葛亮 魏延 |
| 関連年表 |
214年 固陵太守となる 222年 車騎将軍となる 232年 更迭され成都に帰還する |
劉エン(エンは「王偏」に「炎」)、字を威碩といい、魯国の人である。
劉備が豫州にいたころ、召し出して従事としたが、同族の姓であることと、みやびごころがあり、談論を愛好したために、親愛され厚遇を受けた。かくて劉備に随行して諸地を遍歴したが、つねに賓客として側にあった。
劉備は益州を平定すると、劉エンを固陵太守に任命した。
劉禅が即位すると、都郷侯に封じられ、席次はつねに李厳の次に位し、衛尉・中軍師・後将軍に任命され、車騎将軍に昇進した。
しかしながら、国政には参与せず、ただ兵一千あまりを部下にもち、丞相諸葛亮に随行して批評や建議をするだけであった。車馬・衣服・飲食は奢侈をうたわれ、侍碑数十人はみな歌や音楽がうまく、また全員に王逸の『魯霊光殿の賦』を教えて暗誦させた。
232年、前軍師の魏延と不仲になり、でまかせの言葉を吐いたので、諸葛亮が詰問した。劉エンは諸葛亮に文章を送って陳謝した。その結果、諸葛亮は劉エンを成都に帰還させ、官位はもとどおりにすえおいた。
劉エンは希望を失ってぼんやりしていた。
234年正月、劉エンの妻の胡氏が太后に年賀のために参内した。太后は命令して特別に胡氏を留めておいたので、ひと月たってやっと退出した。胡氏は美人であったので、劉エンは彼女が劉禅と私通したのではないかと疑い、吏卒を呼んで胡氏を鞭うたせ、とどのつまり草履で顔をなぐったあと離縁した。胡氏が事こまかに劉エンを告訴したため、劉エンはそのかどで投獄された。
担当官吏は、本件を判断して、劉エンはついに市場で処刑された。
今回の処刑により、これより以降、大官や妻や母が、朝賀に参内する風習は絶えたのである。
『小説三国志演義』では、北伐において出陣する名簿で、名前が登場するだけである。