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蜀伝


孟達 子度もうたつ しど

姓名孟達
子度
生没年? - 228年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評三度主君を変えながらも、節義を守れず運命を狂わせた人物
主な関連人物 劉備 諸葛亮 劉封 
関連年表 213年 宜都太守となる
219年 散騎常侍・建武将軍・新城太守となる

略歴

孟達、字を子度といい、涼州扶風郡の人である。父は孟他、子は孟興、甥に鄧賢がいる。孟達はもとの字を子敬といったが、劉備の叔父の劉敬の名を避けて、子度と改めた。

父の孟他は宦官の張譲に賄賂を贈り、涼州刺史を得た。孟達は故郷にいたが、飢饉が起きたため同郷の法正と共に故郷を離れ、益州の劉璋の元に身をよせた。

劉璋は孟達を法正の副将として派遣し、おのおの兵二千人を統率させて、劉備を迎えにやらせた。劉備はそのまま孟達にその軍勢をまとめて指揮させ、江陵に駐屯することを命じた。

蜀が平定されたあと、孟達を宜都太守に任命した。

219年、孟達に房陵を攻撃させた。坊領太守の蒯祺は孟達の兵によって殺害された。孟達が軍を進めて上庸を攻撃しようとしたとき、劉備は孟達ひとりに任せるのに内心躊躇を感じたので、劉封を派遣して漢中より下らせ孟達の軍を統率させることとし、孟達と上庸で落ち合わせた。

関羽は樊城・襄陽を包囲して以来、劉封・孟達に軍兵をくり出して救援してくれと何度も呼びかけたが、劉封と孟達は山中の郡が従属したばかりなので動揺を与えてはならぬとことわり、関羽の呼びかけを承諾しなかった。

たまたま関羽が敗北を喫して死んだため、劉備はこれを恨んだ。

また劉封と孟達は反目しあって仲が悪く、劉封はやがて孟達の軍楽隊を没収した。孟達は罪を受けることを恐れたうえに、劉封に対して憤激と怨みの念を抱き、かくて上表して劉備に別れを告げ、部下をひきいて魏に降伏した。

孟達は劉封に手紙を送って、劉封の身の危険と、跡目相続に対する派閥と讒言、また魏に降伏するよう説得した。しかし劉封は従わなかった。

曹丕は孟達の容姿・才能を嘉し、散騎常侍・建武将軍に任じ、平陽亭侯に封じた。房陵・上庸・西城の三郡を合併して新城郡とし、孟達に新城太守を担当させた。

征南将軍の夏侯尚、右将軍の徐晃を派遣し孟達とともに劉封を襲撃させた。孟達は劉封に手紙を送って説得したが、劉封は結局従わなかった。

太和年間、申儀は孟達と不和になり、たびたび上奏して孟達が二心を抱いて蜀に通じていると述べた。諸葛亮は、北伐の実行にあたり孟達に目をつけていた。曹丕の生前より手紙を送り誼を通じていたが、孟達の立場が危うくなったことを見て取り、再び魏を裏切るように誘いをかけた。

孟達は諸葛亮に手紙を送って「宛は洛陽から八百里の距離にあり、私のいる新城郡から千二百里の距離にあります。司馬懿が城に来るには、まず言上して帝意を汲まねばならず、手続きも含めれば一ヶ月近くかかるでしょう。その間に我が方は十分に防備を固められます」このように孟達もそれに応じる気配を見せたが、なかなか決断しようとしなかった。

諸葛亮は費詩の反対があったにも関わらず、孟達に期待を寄せていたが、次第に孟達のはっきりしない態度に業を煮やし始めた。さらに郭模に命じて、孟達と不和であった申儀にわざと情報を漏らし、孟達の早期の決断を促そうとした。そして、司馬懿は参軍の梁幾を派遣して孟達を調査させ、入朝するよう孟達に勧告した。これによって疑心暗鬼に陥った孟達は、恐れをなして反乱を起こした。

孟達が反旗を翻すと、申儀は蜀との交通をふさぎ、蜀の援軍がやって来ないようにした。曹叡は司馬懿を派遣して孟達を討伐させた。

孟達の予想に反し、司馬懿は孟達の四倍の兵を率いて、州泰の先導下で昼夜兼行の進軍を強行し、僅か八日で上庸まで辿り着き孟達を攻撃した。

上庸城は三方を川に囲まれた要害であったが、司馬懿が孟達の大将李輔と甥の鄧賢を誘ったところ、鄧賢らは城門を開いて軍勢を引き入れた。孟達は包囲されること十六日で敗北した。その首は、洛陽の大通りの四辻で焼かれた。


評価

曹丕に謁見したとき、堂々とゆったりとして優雅であり、才能と弁舌は傑出しており、注目しない者はいなかった。曹丕は孟達を寵愛したが、劉曄や司馬懿は孟達を信の置けない人物と判断し、重用しないよう諫言した。結局その言葉通りとなった。

曹丕が崩御し、親友の桓階・夏侯尚も亡くなったため、降将である孟達は不安になり、今度は呉とも通じようとしていたといわれる。


演義

小説『三国志演義』では字は子慶となっている。当初より張松や法正と共に劉備を蜀に迎え入れ、打倒劉璋の策を練っていた事になっている。 関羽死亡前後の動静は正史とほぼ同様であるが、劉封に積極的に関羽を見殺しにするよう進言している。 曹丕即位後に、司馬懿が提案した蜀を五つの道から攻める計略により蜀に侵攻するも、諸葛亮の策で友人の李厳と対峙する事になり、良心の呵責からか戦いはせずに魏に引き上げている。他にも司馬懿の軍勢に城を囲まれた時に、徐晃を弓で射殺している。