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蜀伝


向朗 巨達しょうろう きょたつ

姓名向朗
巨達
生没年? - 247年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評古典研究が最大して、晩年は世相に関わろうとしなかった政治家
主な関連人物 劉備 諸葛亮 馬謖 向寵 
関連年表 210年 荊州南部の統治する
214年 巴西太守となる
228年 免官される
234年 特進を賜る

略歴

向朗、字を巨達といい、襄陽郡宜城県の人である。子は向条、甥に向寵がいる。

荊州の牧劉表は向朗を臨沮の長に任命した。劉表が亡くなると、劉備に帰服した。劉備は江南を平定すると、向朗に荊州南部四県の軍事と民事を治めさせた。

蜀が平定されたのち、向朗を巴西太守に任じ、しばらくして牂牁太守に転任させ、また房陵太守にかわらせた。

劉禅が即位すると、歩兵校尉となり、王連が死去すると代わって丞相長史を担当した。

丞相諸葛亮が南征すると、向朗は後に残って丞相府の仕事を取り仕切った。

227年、諸葛亮に随行して漢中に赴いた。その後、街亭において敗戦して、その責任である馬謖は牢獄にいた。向朗は平素より馬謖と仲が良かったので、馬謖が牢獄より逃亡した際、事情を知りながら黙認した。諸葛亮はこれを恨んで免官して帰還させた。

数年後、復権して光禄勲となった。

諸葛亮の死後、左将軍に移ったが、過去の功績をとりあげられて、顕明亭侯に封じられ、特進の位(三公に次ぐ特別待遇)を授かった。

247年、向朗は死去した。享年不明。


評価

昔、向朗は若いころ、広く学問を修めたが、学者としてふだんの品行を養えることをせず、実務の能力によって評判を得た。長史をやめさせられてから後は、三十年近くのんびりと何事もなく暮らし、それからあらためて典籍の研究に専念し、孜々として倦怠することはなかった。

『襄陽記』によると、向朗は若いころ司馬徽に師事し、徐庶、韓嵩、ホウ統といずれも親しかったとしている。

八十歳を越えても、なお手ずから書物の校勘をし、誤謬を訂正し、書物を収集することにかけては当時最大であった。門戸を開放して賓客を接待し、後進を教え導いたが、ただ古義を説くのみで、時事には言及せず、そのことによって評価を受けた。

上は政治の担当者より下は子供にいたるまで、みな彼を敬愛し尊重した。


見解

馬謖逃亡については、馬謖伝には記載がされてない。しかし、本伝から推測すると、馬謖は街亭の敗戦での責任で処刑されたのではなく、脱獄による法律に定められた処刑ではないかと、考えられる。

裴松之の注釈によると、「向朗が馬謖の件で長史を免官になったとすれば、それは228年内のことである。向朗が247年に死ぬまで、ちょうど二十年経過(評価欄参照)しているだけであり、誤字である」と間違いではないかと指摘している。