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姓名 | 張裔 |
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字 | 君嗣 |
生没年 | ? - 230年 |
所属 | 蜀 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 史記・漢書を通じて博識で、事務官として活躍した政治家 |
主な関連人物 | 劉備 諸葛亮 鄧芝 |
関連年表 |
214年 巴郡太守となる 222年 蜀に戻り復権する 227年 長史となる 228年 輔漢将軍となる |
張裔、字を君嗣といい、蜀郡成都の人である。子は張毣、張郁がいる。
『公羊春秋』を学び、ひろく『史記』『漢書』を読んだ。
汝南の許靖は蜀に入ると、張裔は実務の才があって頭の回転が早い、中原にいる鍾ヨウ(元常)の仲間だといった。劉璋の時代に、孝廉に推挙されて、魚腹県の長となり、州に帰って従事に任じられ、帳下司馬を兼務した。
張飛が荊州から侵入したとき、劉璋は張裔に兵を授けて、徳陽で張飛を防がせたが、軍は敗北し、成都に帰還した。劉璋のために使者となって劉備のもとへ赴いた。劉備はその主君を礼遇し、臣下の安全を保障した。張裔が帰還すると、城門は開かれた。
劉備は張裔を巴郡太守に任じ、また司金中郎将にして、農機具と武器の製造を司らせた。
数年後、益州郡が太守の正昂を殺害した。その地の豪族雍ガイの恩徳・信義は南方の地域に聞こえわたっていたが、彼はあちこち使者を派遣し、遠く呉の孫権とよしみを通じていた。そこで張裔を益州太守に任命し、彼はただちに郡に着任した。
雍ガイはそのままぐずぐずとして服従せず、神霊のお告げにことよせて、「張府君はひさごのつぼと同じだ。外見はつやつやと光沢があるが内実は粗雑である。殺害するほどのことはない。縛り上げて呉に送ろう」といった。その結果、張裔は孫権のもとに送られた。
ちょうどそのころ劉備が逝去した。諸葛亮はトウ芝を呉との和平同盟への使者として派遣したが、彼はトウ芝、話のついでに孫権から張裔の身柄をもらい受けるよう頼めと命じた。
張裔は呉に来てから数年間、転々と流浪し雌伏していたので、孫権はまだ彼を知らず、そのためにトウ芝に張裔の返還を許可した。張裔が出発するにあたって、孫権は引見し、張裔に質問して談笑し、彼をひとかどの人物だと思ったようすであった。張裔は宮殿から退出してから、愚者のふりをなしえなかったことを深く後悔し、即刻船に乗り、普通の倍の速力で進んだ。孫権は果たして彼を追跡したが、張裔はすでに永安の国境から数十里も中へ進んでいたので、追手は追いつけなかった。
蜀に到着したあと、丞相の諸葛亮は彼を参軍に任じて、軍府の事務をとりしきらせ、また益州治中従事を兼務させた。
諸葛亮が出陣して漢中に駐屯すると、張裔は射声校尉の官位にあって留府長史を兼務した。つねに「公の恩賞に際しては遠くにいる者を忘れることなく、刑罰に際しては近くにいる者におもねらない。封爵は勲功なくして手に入れることができず、刑罰は高い身分や権勢によって免れることができない。これこそ賢者も愚者もすべて我が身を忘れて努力する理由である」と諸葛亮をたたえていた。
その翌年、北方の諸葛亮のもとに、事務の打ち合わせに赴いた。見送る者は数百人、車馬が道路いっぱいに満ちあふれていた。
若いころ、楊恭と仲が良かったが、楊恭は若死にして、遺児はまだ数歳にもなっていなかったので、張裔は迎え入れて、家を分けて住まわせ、自分の母に対するように楊恭の母につかえた。楊恭の子が成長すると、彼のために妻を娶ってやり、田地宅地を買い与え、一家を構えさせた。
その後、輔漢将軍の官位を付加されたが、長史を兼務することはもとどおりであった。
230年、張裔は亡くなった。享年不明。
張裔は親しい人にあてた返書でこう述べた、「最近旅行にでましたが、日夜来客に接して、休息する暇もありませんでした。人は丞相長史を尊敬なさるが、一介の男子張君嗣はそのお付きで、疲労のあまり息も絶え絶えです」諧謔を交えた話のすらすらと出るさまはみなこのようなものであった。
それに対して裴松之の注釈では、「会話の諧謔は機敏さを尊ぶものであるが、手紙は心を留めてじっくり書くことが必要である。いま、手紙の巧みさによって、会話の諧謔がすらすらと出るさまを説明するのは、理屈にあわない」といっている。
友人の楊恭についてあるように、昔馴染みをいたわり、没落した親類の面倒を見、その義行はたいへん行き届いたものであった。
小説『三国志演義』には登場しない人物である。