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姓名 | 于禁 |
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字 | 文則 |
生没年 | ? - 221年 |
所属 | 魏 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | 厲侯 |
伝評 | 名将として曹操に誉れたが、関羽との戦いで晩節を汚す |
主な関連人物 | 曹操 曹丕 龐悳 |
関連年表 |
184年 黄巾の乱 192年 曹操の配下となる 197年 張繍征討 198年 呂布征討 200年 官渡の戦い 205年 昌キの乱 219年 樊城の戦い |
于禁、字を文則といい、泰山郡鉅平県の人である。子は于圭がいる。
黄巾の乱が起こると、鮑信は兵隊を呼び集めた。于禁は彼につき従った。
曹操がエン州を治めることになると、于禁はその仲間とともに出頭し都伯(隊長)となり将軍王朗に所属した。王朗は彼を評価し、于禁の才能は大将軍をまかせられると推薦した。曹操は引見して彼と話をし、軍司馬に任命し、兵をひきつれて徐州に行かせ、広威を攻撃させた。これを陥落させ、陥陣都尉に任命された。
濮陽における呂布討伐に参加し、別軍として城の南にある呂布の二陣営を打ち破った。また別軍の将として須昌において高雅を打ち破った。寿張・定陶・離狐の攻撃、雍丘における張超包囲に参加し、すべてそれらを陥落させた。
黄巾の劉辟・黄邵らの征討に参加し、版梁に駐屯したとき、黄邵らが曹操の軍営に夜襲をかけてきた。于禁は直属の兵を指揮して彼らを撃破し、黄邵らを斬り、その軍勢をすべて降伏させた。平虜校尉に昇進した。
苦における橋ズイ包囲に参加し、橋ズイら四将軍を斬った。
つき従って苑まで行き張繍を降伏させた。張繍がふたたび反乱を起こすと、曹操は彼と戦って形勢不利で軍は敗北をきっし無陰に引き返した。このとき軍は混乱し、それぞれ間道を通って曹操を探した。于禁だけは部下数百人を指揮し、戦いつつ引き上げた。死傷者はあったけれど離散する者はなかった。敵の追撃が次第にゆるくなると、于禁はおもむろに隊列を整え、太鼓を鳴らして帰還した。
曹操のいる所に行きつかぬうちに、道中で傷を受け裸で逃げる十余人の兵士に出あった。于禁がその理由を訊ねると、「青州の兵に略奪を受けました」といった。それより以前、黄巾賊が降伏し、青州の兵とよばれていた。曹操は彼らを寛大に扱ったため、それにつけこんで平気で略奪を行なったのである。于禁は腹を立て、部下たちに命令して、略奪した者を討伐し、彼らの罪を責め立てた。青州の兵はあわてふためいて曹操のもとに逃げ訴え出た。于禁は到着するとまず陣営を設け、すぐに曹操に謁見しなかった。ある人が于禁に「青州兵が君を訴えてますぞ。すぐにこのことをはっきりさせなければなりません」于禁は、「今、賊軍が背後にいる。追撃がくるので、まず備えを立てなければ、どうやって敵を対処するのだ。公は聡明であられるので、でたらめの訴えが何の役に立つ」おもむろに陣営をしきおわると、やっと謁見し、詳しく実状を説明した。曹操は喜び、「そなたの何事にも動じない節義は、古の名将に勝る」といった。于禁の前後にわたる功績で、益寿亭侯にとりたてた。
ふたたびつき従って張繍を穰に攻撃し、呂布を下ヒで捕らえた。別軍として史渙・曹仁とスイ固を射犬に攻撃し、打ち破って彼を斬った。
曹操が初めて袁紹を征討したとき、袁紹の兵力は盛んであったが、于禁は先陣をひきうけたいと希望した。曹操はその意気をかって、歩兵二千人を于禁に指揮させて延津を守らせ、袁紹を防がせ、曹操は軍をひきつれ官渡を渡った。劉備が徐州を根拠に反逆すると、曹操は劉備征討のため東へ行った。袁紹は于禁を攻撃したが、于禁は固守し、袁紹は陥落させることができなかった。
今度は楽進らと歩兵・騎兵をあわせて五千を指揮し、袁紹の別の陣営を攻撃した。延津から西南に向かい黄河に沿って二県まで行き、三十余箇所の守備地を焼き払った。斬った首の数と捕虜の数がそれぞれ数千、袁紹の将軍何茂・王摩ら二十余人を降伏させた。曹操はまた于禁に別軍を指揮させて原武に駐屯させ、袁紹の別軍を攻撃させ、それを打ち破った。裨将軍に昇進し、のちにつき従って官渡に帰った。
袁紹が敗れると、偏将軍に昇進した。冀州は平定された。昌キがまたも反逆したので、于禁に彼を征討させた。昌キは于禁と旧知の仲だったので、于禁のもとに出頭して降伏した。諸将は皆、昌キが降伏したから曹操のもとに送るべきだと主張したが、于禁は、包囲されてのちに降伏した者は赦さないとした。自身出向いて昌キに別れを告げ、涙をおとしながら彼を斬った。曹操はこれを聞いて感歎して、いよいよ于禁を重んじた。
東海が平定されると、于禁を虎威将軍に任命した。のちに臧覇らと梅成を攻撃した。梅成は降伏したが、ふたたび背き、陳蘭のもとに走った。張遼らが陳蘭と対峙していたので、于禁は兵糧輸送の役に当たり、途絶えさせることがなかった。張遼はかくて陳蘭と梅成を斬った。
このとき、于禁は張遼・楽進・張コウ(儁乂)・徐晃とともに名将であり、曹操が征討するごとに、皆かわるがわる起用され、進撃のときは軍の先鋒となり、帰還のときは殿となった。
曹操はいつも朱霊をにくんでおり、その軍営をとりあげようとして、于禁を派遣して命令書を持って行かせた。朱霊は于禁の配下の一指揮官として、人々は皆おそれて服従した。彼が一目置かれているありさまはこのようであった。左将軍に昇進した。
219年、曹操は長安におり、曹仁に命じて樊にいる関羽を討伐させ、また于禁に曹仁を助けさせた。秋にたいそうな長雨が降り、漢水があふれ、平地には数丈の水がたまり、于禁ら七軍は皆、水没した。関羽は大船に乗ってやってきて于禁らを攻撃し、于禁はけっきょく降伏したが、ホウ徳は忠節をまげずに死んだ。
曹操はそれを聞くと、長く哀しみの歎息をもらし、「わしが于禁を知ってから三十年になる。危機を前にし困難あって、かえってホウ徳に及ばなかったとは思いもよらなかった」といった。
たまたま孫権が関羽を捕え、その軍勢を捕虜にしたので、于禁は今度は呉に住むことになった。
曹丕が帝位につくと、孫権は藩国の礼をとり、于禁を帰国させた。曹丕が于禁を引見すると、髭も髪も真っ白で、顔形はげっそりやつれ、涙を流し頭を地にうちつけて辞儀した。曹丕は荀林父・孟明視の故事を引き合いに出し慰めさとし、安遠将軍に任命した。
呉に使者として派遣するつもりで、先に北方のギョウに行って高陵に参拝させた。曹丕はあらかじめ、御陵の建物に、関羽が戦いを勝ち、ホウ徳が憤怒しており、于禁が降伏しているありさまを絵にかかせておいた。于禁は見ると、面目なさと腹立ちのため病気にかかり逝去した。
于禁の軍を保持する態度は厳格できっちりしており、賊の財物を手に入れても個人の懐に入れることはなかった。このため賞賜はとくに手厚かった。しかしながら法律によって下を統御したからあまり兵士や民衆の心をつかめなかった。
諡である厲侯の「厲」は災いを意味する。于禁は死後までも嘲られたのだった。
『正史』注釈の裴松之は、包囲されてのちに降伏した場合、法律からいって赦されないけれども、囚人としてそれを護送するのは、命令に違反したことにならない。于禁は旧友のために万一の幸運を期待することをまったくせず、その殺害を好む心のままにふるまい、人々の意見に逆らった。最後に降伏者となり、死んでからは悪い諡を与えられたのは、当然であろう、と述べている。
また、北宋の司馬光は『資治通鑑』で、「文帝(曹丕)はこれ(于禁)を罷免することも、殺すこともできた。それなのに陵屋に(降服したありさまを)描かせてこれを辱めた。君主のやることではない」と、曹丕の仕打ちを批判している。
小説『三国志演義』では史実に基づいた描写は少なく、もっぱら悪役として登場する。曹操に降伏した劉琮を、曹操の命で暗殺したり、ホウ徳の忠義を疑う場面があり、扱いは奸臣曹操の忠実な手先として貫徹している。哀れな最期を促すためか降服の場面では惨めな命乞いをしている。この描写は処刑されたホウ徳の忠義心を、より引き立てることになっている。