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曹操と劉備の英雄論

魏伝


楽進 文謙がくしん ぶんけん

姓名楽進
文謙
生没年? - 218年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号威侯
伝評曹操の挙兵時より従った古参の武将
主な関連人物 曹操 張遼 
関連年表 190年 反董卓連合で従事する
198年 呂布討伐
200年 官渡の戦い
203年 黎陽の戦い
205年 南皮の戦い
206年 高幹の反乱鎮圧
208年 長阪の戦い
215年 合肥の戦い

略歴

楽進、字を文謙といい、陽平郡衛国県の人である。子に楽チンがいる。

身体つきは小柄であったが、きもったまのはげしさによって曹操につき従い、帳下の吏(記録官)となった。曹操は出身の郡に帰して兵を募集させたが、千余人を手に入れ、帰って軍の仮司馬・陥陣都尉となった。

濮陽における呂布攻撃、雍丘における張超攻撃、苦における橋ズイ攻撃に参加し、すべて一番乗りとして戦功を立て、広昌亭侯にとりたてられた。

安衆における張繍征討、下ヒにおける呂布包囲に参加し、別将を打ち破った。またスイ固を射犬に攻撃し、劉備を沛に攻め、すべてそれらを打ち破り、討寇校尉に任命された。

黄河を渡って獲嘉を攻撃し、帰還すると、官渡における袁紹攻撃に参加し、力の限り戦い、袁紹の将軍淳于瓊を斬った。黎陽における袁譚・袁尚攻撃に参加し、その大将厳敬を斬り、行遊撃将軍となった。

別軍として黄巾の賊を攻撃し、それを打ち破り楽安郡を平定した。ギョウの包囲に参加し、ギョウが平定すると、南皮における袁譚攻撃に参加し、一番乗りとして袁譚の東門に突入した。袁譚が敗れると、別軍として雍奴を攻撃し、これを打ち破った。

206年、曹操は漢帝に上奏文をたてまつり、楽進および于禁、張遼をたたえて、「武力が優れ、計略を知り、忠義純一で、指揮官として立派であり、軍隊を統率し、命令をかしこみ違反することなく、決断に失敗がない」として、顕彰して恩寵するように述べた。その結果、于禁は虎威将軍に、楽進は折衝将軍に、張遼は盪寇将軍にとりたてられた。

楽進は別軍として高幹を征討し、北道を通って上党に入り、迂回してその背後に出た。高幹らは引き返して壺関を守ったが、連戦して敵兵の首を斬った。高幹は固守して降らなかったが、たまたま曹操が自身彼を征伐し、やっと落した。

曹操は管承を征討し淳于に陣を置き、楽進と李典を派遣して彼を攻撃させた。管承は敗走し海中の島に逃げ込み、海岸地帯は平定された。

荊州がまだ服従していないので、派遣されて陽テキに駐屯した。のちに荊州平定に参加し、曹操が敗れて帰還すると、留まって襄陽に駐屯した。関羽、蘇非らを攻撃し彼らをすべて敗走させた。南郡の諸県の山谷にいる蛮民たちが楽進のもとに来て降伏した。また劉備の臨沮の長・杜普、旌陽の長・梁大を討伐し、すべてさんざんに打ち破った。

のちに孫権征討に参加し、楽進は節(軍の指揮権を示すはた)が貸し与えられた。曹操は帰還するとき、楽進を留めおき張遼、李典とともに合肥に駐屯させた。楽進は右将軍に昇進した。

218年、逝去した。享年不明。


演義

小説『三国志演義』では弓を得意とする武将として描かれている。濮陽の地で呂布軍と戦った時には敵将の成廉を射殺し、また南皮での袁譚との戦いでは敵将の郭図を射殺した。

濡須口の戦いでは凌統と一騎打ちを行い、数十合の討ち合いを展開した。しかし一騎打ちの最中に甘寧の矢を顔に受けて矢傷を負い、その後は登場していない。

また、魏の五将軍の一人として、張遼、于禁、張コウ(儁乂)、徐晃らと並んで称された。