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打倒董卓を掲げ曹操が挙兵

魏伝


毛玠 孝先もうかい こうせん

姓名毛玠
孝先
生没年生没年不詳
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評公正さを重んじて人事手腕を発揮し、曹操と対立して免職された人物
主な関連人物 曹操 桓階 崔琰 
関連年表 195年 治中従事となる
196年 功曹となる
207年 東曹の掾となる
208年 右軍師となる
213年 尚書僕射となる

略歴

毛カイ(王偏に介)、字を孝先といい、陳留郡の平丘県の人である。子に毛機がいる。

若いころ、県の役人となったが、清潔公正ということで評判をたてられた。戦乱を避けて荊州に行こうとしたが、到着する前に、劉表の政令がいい加減だと聞いて、けっきょく魯陽に赴いた。

曹操はエン州に兵を進めたとき、招いて治中従事とした。毛カイは曹操に、「現在、天下は分裂崩壊し、国の王(献帝)は都を離れて転々とされ、民草は仕事をやめ、飢饉にあって逃亡流離しております。お上には一年を越える貯えもなく、人民には安定した気持ちがなく、長くもちこたえることは困難です。現在、袁紹・劉表は、士大夫や庶民その数多く、協力であるとは申しながら、いずれも将来を見通す思慮をもたず、基礎をかためることもしておりません。そもそも戦争は道義のあるほうが勝つもので、現状を維持する場合には財力を用いるのです。したがってよろしく天子を奉戴し、それによって不実の臣下に号令し、農耕を大事にし、軍需物資を貯えるべきでありまして、このようにいたしますれば、全国制覇の事業は完成できましょう」と語った。曹操は敬意をもってその進言を受け入れ、幕府の功曹に転任させた。

曹操が司空・丞相であったとき、毛カイは東曹の掾となって、崔エンとともに官吏選抜を担当したことがあった。彼が推挙して採用した者は、すべて清潔公正な人物であった。当時にあって評判が高くても、その行動が本心に根ざさない者は、全然昇進することができなかった。彼はつつましさで人の模範となるように努力した。その結果、天下の士人は清廉な生き方をしようとはげまないものはなかった。

高官・寵臣であっても、規定を越えた馬車衣服を用いる勇気はなかった。曹操は感歎して、「人を起用することこのようであれば、天下の人々をしておのずと身を整えさせることになる。わしは何もする必要はないかな」といった。

曹丕は五官将となると、自分から親しく毛カイを訪問し、身内としてかわいがっている者を推挙してくれと依頼した。毛カイは、「老臣はよく職務につとめているということで、運よく罪を免れておられるのです。今お話になった人物は昇進の順序に当たっておりません。この理由からどうしてもご命令をかしこむわけにはまいりません」と答えた。

大軍がギョウに帰還すると、官庁を合併あるいは廃止することが議論された。毛カイが他人の要請を受け付けない人物だったため、当時の役人たちは彼をけむたがっており、みな東曹を廃止したいと望んだ。そこでともどもに「昔は西曹が上位にあり、東曹はその下でありました。東曹を廃止するのがよろしいと存じます」と申し上げた。曹操はその間の事情をのみこんでいたから、命令を下して、「日は東より出、月は東にあるとき盛んである。およそ人の方角を語る場合も、また東を先にする。何の理由で東曹を廃止するのだ」かくて西曹を廃止した。

そのかみ、曹操は柳城を平定し、獲得した器物を分配してやったとき、特に白の屏風と白の肘掛とを毛カイに賜わって、「君は古人の風格がある。だから君に古人の服を賜与する」毛カイは高い位にありながら、つねに庶民の着る衣服を着、そまつな食事をとっていた。みなしごとなった兄の子を心をこめていつくしみ育て、お上よりの下され物は貧しい氏族に施し、家には何も残さなかった。右軍師に昇進した。

魏国が建てられるや、尚書僕射となり、またも官吏の選抜を担当した。

当時太子の地位はまだ安定していず、しかも曹植が曹操からかわいがられていた。毛カイは内密に曹操を諌めた。「近ごろ、袁紹は嫡子と庶子を区別しなかったために、一族絶滅、国家滅亡をもたらしました。太子の廃立は重大事でございます。耳に入れるべき事柄ではございません」その後、官僚たちが集うているとき、毛カイが便所に立つと、曹操は目顔で示しながら、「彼は古代にいうところの国の司直であり、わしの周昌である」といった。

崔エンが死んだあと、毛カイは心中、崔エンを自殺させた曹操の仕打ちを不愉快に思った。その後、毛カイのことを告げ口する者があった。「外出したとき、顔にいれずみされて帰ってくる者に出会いました。その妻子は没収されてお上の奴婢とされていました。毛カイは口を開いて『天に雨を降らせなくしているのは、多分このためであろう』と申しておりました」曹操はたいそう腹を立て、毛カイを逮捕して投獄した。

大理の鍾ヨウが毛カイを詰問し、「古えの聖帝明王の時代から、罪は妻子にまで波及している。『尚書』に『車の左にいる者が左の仕事を行わず、右にいる者が右の仕事を行わなければ、わしはおまえの子まで殺すぞ』といっている。司寇の職は、罪を犯した者の家族のうち男子を罪隷に入れ、女子を春稾に入れる。漢の法律では、罪人の妻子を没収して奴婢とし、顔にいれずみする。漢の法律が実施しているいれずみの刑は、古い制度に存在しているのだ。今、実際奴婢の祖先に罪があったならば、百代たったあとでもやはり顔にいれずみしてお上に提供することがあるだろう。一つには良民の生命を寛大に扱うためであり、二つには連座の罪を許すためである。それがどうして神のみ心にそむいて、ひでりを招くのがあたりまえ、となるのだ。典籍を考えてみるに、君主の政治がきびしいと寒さつづきの気候がひきおこされ、ゆるやかだと暑さつづきの気候がひきおこされるのだ。ゆるやかであれば陽気がのぼってひでりの原因となる。毛カイの発言は、ゆるやかだと考えているのか、きびしいと考えているのか。きびしければ空がくもり長雨が降るはずだ。どうして逆にひでりとなるのだ。成湯の尊きみ代にも、ひでりのため原野には生きた草がはえなかったことがあるし、周の宣王は明君であられたが、旱魃がわざわいをひきおこしたことがある。おおひでりが起こってから三十年になるが、顔にいれずみしたことに責任を求めるのを妥当だと考えるのか。春秋時代、衛の人がケイを討伐し、軍隊を出動させた結果、雨が降った。罪悪のほうは徴候がなかったのに、どうして天の意志に答えられたのか。毛カイの誹謗の言葉は、下々の人民に流れ、不満の声は、天子のお耳に達している。おまえの発言は立場からいって独り言ではすまされぬ。そのとき、いれずみした顔を見たそうだが、だいたい何人いたというのだ。顔にいれずみした奴婢は、知っている人間なのか。どういう因縁で会うことができ、その者に向かって慨嘆したのか。そのとき、誰に話しかけたのだ。なんと答えられたのだ。何月何日だったのだ。場所はどこだったのだ。事はすでにあらわれている。かくしだてたりごまかしたりできぬぞ。くわしくありのまま答えよ」

毛カイは、「わたくしは聞いております。前漢の蕭生が首をくくって死んだのは、石顕に苦しめられたからであり、賈誼が中央から追い出されたのは、周勃・灌嬰の讒言があったからです。秦の白起は杜郵にて剣を賜わり自殺し、漢の晁錯は東の市場で処刑され、伍子胥は呉の都で命を絶ちました。これらの数人の者は、最初に嫉みを受けることがあり、その後被害が訪れることになったのです。わたくしは前髪を垂れたころより文書を手にし、努力を重ねて官にありつきました。職務は天子の側近にあって、人事に関与したことであります。わたくしは個人的便宜をたのんできた場合、権勢家でも拒絶しないわけにはいかず、わたくしに無実を訴えてきた場合、いやしい者でも審理しないわけにはまいりません。人情や利欲にひかれることは、法律の禁止するところであります。利欲に対して法律で禁じましても、なりゆきからいってよく無視されるものです。わたくしに対して誹謗を行っています。わたくしを誹謗する人達も、なりゆきからいって彼ら以外にはございません。昔、王叔と陳生は周王の朝廷で正当さを言い争いました。晋の范宣子は公平に審理し、自己の主張を要約して述べるように命じました。その結果、是と非、曲と直は正しく判断されました。それをたたえ、そのゆえにこのことを記載しております。わたくしが自身のことを訴えないのは、時と人が存在しないからです。わたくしについてのこの告発には、必ずや証言がございましょう。どうか范宣子のご判断を仰ぎまして、王叔の返答を要求したいと存じます。もしもわたくしが曲がったことを申し述べましたならば、処刑につく日も、安楽な四頭立ての馬車を贈られる栄誉と同じに喜んでお受けいたしましょう。剣が賜わるときがきても、それを手厚いおほめの恩恵と同じものと考えるでございましょう。つつしみて、ありのままにお答えいたします」といった。

当時、桓階と和洽が弁護して毛カイを救った。毛カイはかくて免職となり、家で亡くなった。享年不明。

曹操は棺・埋葬品・銭・絹を賜与し、子の毛機を郎中に任命した。


評価

『先賢行状』によると、毛カイはのびやかで明るく公正な人柄で、官にあってはつつしみぶかく清廉だった。その官吏選抜を司っては、誠実な人物を抜擢し、表面を飾る者を排斥し、行動のひかえめな人物を昇進させ、権力者にへつらって同調するやからをおさえた。民衆を統治する行政官たちのうち、功績がめだたずに個人の財産が豊かな者は、すべて免職停職処分にし、長い間選抜起用しなかった。当時にあって四海の人々は心を寄せ、行いに励まないものはいなかった。高官が帰宅する場合となると、汚れた顔にくたびれた衣服で、つねにそまつな車に乗っていた。武官が司令部に入るときは、官服を着て徒歩だった。人々は壺に入った食物を盗み食いしなかった趙衰の清廉さをまねし、家々は道義のゆきわたった時代にのみ官吏のかぶる冠のひもを洗って仕官したという節操をみならった。高貴の者はけがれた欲望にわずらわされることなく、下賤の者は不正な財貨を求めることがなかった。官吏が上にあって潔癖さを保ち、その影響は下にまで及んだ。人民は今に至るまでこの時代をたたえている。

孫盛曰く、毛カイの逮捕について、「曹操はこの結果、政治と刑罰をあやまることとなった。『易』には明らかに庶獄を折つといい、『伝』には直きを挙げまがれるを措くとある。裁判が明白であれば図にうらみをもつ民はなく、曲直の判断が妥当であれば、服従しない民はない。軽薄な声をとりあげ、次第にくいこんでくる讒言を信じながら、四海のうちをよく治め、輝ける時代をもたらし得た者は存在しない。昔、漢の高祖は蕭何を投獄したが、出獄させてふたたび首相とした。毛カイはひとたびとがめられると、永久に排斥された。二人の君主の度量は、差がないだろうか」と批判している。


演義

小説『三国志演義』ではエン州で挙兵した曹操に満寵と呂虔に推挙されて仕えたことにされており、赤壁の戦いでは于禁と共に水軍の都督を拝命している。