三国志による三国志好きのための三国志総合情報サイト

登録人物伝 326 名 | 37人が閲覧中

三国志.jp[三国志総合情報サイト]
月間キーワード 4月の出来事
曹操と劉備の英雄論

魏伝


徐庶 元直じょしょ げんちょく

姓名徐庶
元直
生没年生没年不詳
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評若いころから任侠で剣術を極め、諸葛亮らと才能を認め合った人物
主な関連人物 曹操 劉備 諸葛亮 
関連年表 不明

略歴

徐庶、字を元直といい、潁川郡長社県の人である。元の名は福といい、もともと単家、つまり勢力がない貧しい家の出身だった。

若いころは任侠を好み、剣の遣い手だった。かつて人のために仇討ちをし、白い土を顔に塗りつけ、髪を振り乱して狂人を装って逃走したが、役人に捕らえられた。徐庶に名前を問うても答えないため、役人は車の上に柱を立てて縛り付け、誰かの男を知らないかと、人出の多い市場で引き回したが、徐庶と面識があると名乗り出た者はいなかった。

そのうち、仲間が奪い取って縄を解いてくれたので、ようやく逃げられた。この結果、心に深く感じるところがあって、刀や矛を捨てて粗末な身なりを改め、学問に励むようになった。

初めて塾に行ったとき、学生たちは彼が無法者だったことを知り、あえて付きあおうとしなかった。徐庶は彼らに対して謙虚な態度で接し、朝早くに起きて一人で掃除し、人の気持ちをよく汲んで行動し、経学を学んでその内容に精通した。

同郷の石韜と親しくなり、董卓討伐が始まると、彼と一緒に荊州に難を避け、そこで知り合った諸葛亮と特に親しくなった。

諸葛亮は常日頃、自分を斉の桓公をたすけて覇者とした管仲と、燕の昭王に仕えて斉の七十二城を陥した楽毅になぞられていた。世間の人は諸葛亮の自負を笑ったが、徐庶と崔州平の二人だけは、その自己評価を妥当とみていた。

201年、各地を転々とした劉備は、荊州の劉表に身を寄せていた。

207年、劉備は新野に駐屯して、北からの曹操の攻撃に備えていた。徐庶はある日、新野に劉備を訪れ、「諸葛孔明は臥龍です。将軍はお会いになりたいと思われませんか」と問うた。劉備は「あなたが連れて来てほしい」と言った。徐庶は「かの人はこちらから行って会うべきで、無理に連れて来られません。将軍が駕を枉げて訪ねられるべきです」と答えた。そこで劉備は三度諸葛亮を訪れ、ついに諸葛亮を部下にすることができた。

徐庶は諸葛亮とともに劉備に仕えた。

208年、曹操が荊州を攻撃してきたため、それを避けて主従は江陵をめざして奔った。しかし、曹操の五千騎に当陽で追いつかれ、乱軍の中、徐庶は母が捕らえられたのを知った。徐庶は劉備に別れを告げ、自分の胸を指して「本来、将軍とともに王霸の業を行なうつもりでいたのは、この方寸の地においてでした。今、すでに老母を失って心は乱れており、もはやお役に立てそうもありません。これでお別れさせていただきます」と言い、曹操のもとに去った。

徐庶は魏で右中郎将・御史中丞にまで昇り、友人石韜は郡守・典農校尉を歴任した。

228年、祁山に進出した諸葛亮は旧友たちの消息を知り、「魏は取り分け人物が多いのだろうか。あの二人がその程度にしか用いられぬとは」と慨嘆した。

その数年後、徐庶は死去した。享年不明。


逸話

徐庶が劉備に仕えたのは恐らく2、3年の期間に過ぎず、半生は魏に仕えた人物である。しかし、徐庶こそ劉備に諸葛亮を推薦した人物であった。

『三国志演義』では、単家の単を姓と読み間違え、初めて劉備と出会ったときは単福と名乗っている。

新野時代の劉備と出会ってその軍師として迎えられ、新野城の攻防戦では曹仁・李典率いる魏軍五千を二千の兵で迎撃し、見事に打ち破った。

その後、報復と称して曹仁・李典が二万五千の兵で南下するが、曹仁の八門金鎖の陣を見破り、完膚無きまでに叩き伏せていた。

程昱の策による、徐庶の母親の筆跡を真似た偽手紙を受け取り、止むなく曹操に下ることになるが、去り際に劉備に諸葛亮を推薦した。また、曹操のために献策はしないという誓いを立て、劉備の下を去った。母親はこれを見て徐庶を詰り、自殺してしまった。

赤壁の戦いにも従軍するが、龐統が仕掛けた連環の計の真意に気づきながらもこれを見逃し、龐統の助言により涼州の馬騰に対する備えという名目で陣を離れ、被害を免れた。 因みに『演義』第36回に、徐庶の弟の徐康が程昱の発言中に登場する。

『魏略』によれば、諸葛亮と同じころに彭城で病死したと記されている。また、徐庶は御史中丞あたりまで「福」を名乗っていて、晩年に「庶」と改名したとされている。


評価

諸葛亮は徐庶の才能を高く買い、後年、丞相になったとき、部下に与えた命令の中で、「職務を携わる者は人々に意見を求めて参考にしなければならない。自分と意見が違うからといってそれを認めなければ、仕事に欠陥を生ずる。異なる意見を検討しなおしてこそ、適切な施策も生まれてくるものだ。なかなかできないことだが、ただ徐元直だけはこうしたことに迷わず対処することができた。元直の十分の一でも真似するようとするなら、それは国家に対し忠義な行いとなり、私の過失も少なくなる」と述べている。

また、「昔、崔州平と付き合って、しばしば長所、短所を指摘され、後に元直を知って何度も教示を受けた」とも言っている。

徐庶は若いころ無法者だったが故に、学友から疎外された苦い経験を持ち、崔州平は、金で三公の位を買い取って世間から爪弾きされた崔烈の子だった。諸葛亮は早く両親と死別し、兄と別れて叔父の庇護によって成長した身の上である。互いに過去に翳を持つ者同士だからこそ、気があったのではないかと考えられる。