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魏伝


朱霊 文博しゅれい ぶんはく

姓名朱霊
文博
生没年? - 229年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号威侯
伝評様々な戦功を立て、功績を絶賛された歴戦の武将
主な関連人物 曹操 曹丕 曹叡 
関連年表 220年 高唐亭侯となる
222年 後将軍となる

略歴

朱霊、字を文博といい、冀州清河県の人である。

そのむかし、朱霊は袁紹の将軍であった。清河の李雍は袁紹にそむき公孫サンに降伏した。公孫サンは兵を派遣して彼を護らせた。袁紹は朱霊をやって彼を攻撃させた。朱霊の家族は城中にいた。公孫サンは朱霊の母と弟をつれて来て城壁の上に置き、朱霊に呼びかけてさそった。朱霊は城をながめながら涙を流し、「男がひとたび身を投げ出して人に与えたからには、二度と家族を考慮しようか」といった。かくて力の限りに戦ってこれを攻め陥とし、李雍を生け捕りにしたが、朱霊の家族は全員死んだ。

曹操が陶謙を征討したとき、袁紹は朱霊に三陣営の兵を指揮させて曹操を援助した。朱霊は戦闘で功績を立てた。

袁紹の派遣した将軍たちはそれぞれ帰順したが、朱霊は、「私は多くの人物を観察したが、曹公のような方はなかった。これこそ真の明君である。今日出会ったからには、もうどこにも行かぬぞ」といい、そのまま留まって去らなかった。ひきいていた士卒も彼を慕って、全員朱霊に従って留まった。

199年、曹操は劉備に袁術を討伐させようとし、朱霊と路招をその指揮下に加えた。しかし、討伐着手前に袁術は病死した。朱霊らは徐州に劉備を残し、そのまま曹操の下に帰還した。

曹操は冀州を平定したのち、朱霊に新たに編入した兵五千人と騎馬千頭をひきつれさせ、許南を守らせた。曹操は朱霊に注意を与えて、「冀州はあらての兵はたびたび気ままをゆるされてきた。ここしばらくしめつけられているが、まだ不満を抱いているようだ。御の名はともかく威厳がある。よく道義に従って彼らを寛大に扱え。そうでなければ変事が起こるぞ」といった。

朱霊が陽テキにつくと、中郎将の程昂らがはたして反乱を起こした。朱霊は即座に程昂を斬り、実状を報告した。曹操は自筆の手紙を送って、「軍中で危険を引き起こすことがあるのは、外は敵国と向かい合い、内は悪事の計画があって予期できぬ変事のある場合である。昔、トウ禹は光武帝の軍の半数をひきつれ西に遠征したが、宗キン・馮インの難が起こり、のちには二十四騎をひきつれ洛陽に帰順した。トウ禹はいったいこの事件によって威厳をそこなったであろうか。送られた手紙は心のこもったものであり、責任を負う発言が多くあるが、必ずしもいっているとおり御の責任ではあるまい」と述べた。

208年、曹操が荊州征討に向かう際に、司空掾属主簿趙ゲンが章陵太守を兼任し、さらに都督護軍となった。この時に朱霊は、于禁・張遼・張コウ・李典・路招・馮楷の6将軍と共に趙儼の指揮下に入った。

211年秋7月、曹操が馬超の討伐に向かうと、朱霊も従軍した。この時曹操は密かに徐晃と朱霊に命じて、夜中に蒲阪津を渡らせ、黄河の西に陣営を作らせた。

馬超らが敗北した後、212年、朱霊は路招と共に、行護軍将軍に任命された夏侯淵の指揮下に入り、長安に駐屯した。この時夏侯淵の軍は、南山の劉雄を撃破してその軍を降伏させ、さらに馬超・韓遂の旧配下だった梁興を討ち取った。

215年春3月、曹操の張魯討伐に朱霊は従軍した。曹操が武都郡の方面へ向かおうとすると、テイが進路を塞いだ。曹操は張コウ・朱霊に命じてこれを撃破させた。

曹丕が即位すると、朱霊を鄃侯にとりたて、その領邑を増加した。詔勅に、「将軍は先帝の建国を助け、軍事をつかさどること何年にもわたった。威光は周宣王の賢臣方叔・邵虎より上であり、功績は周勃・灌嬰をこえている。書物の中で賛美されている者も、これ以上のものはあるまい。朕は天命を受け、四海の内に君臨している。国家に大きな功績のあった将軍、国家を背負って立つ重臣は、すべて朕がともに福禄を共有し、それを永遠に伝承して行く者たちである。今、鄃侯にとりたてる。富貴を得て故郷に帰らないのは、夜間刺繍をした衣服をきて道を歩くようなものだ。もし平生から希望することがあれば、遠慮せずに言ってくれ」といった。

229年秋、曹休・賈逵らの呉討伐軍に加わった。曹休が合肥を攻撃して敗北したため、朱霊はこれを何とか救助した。

同年、朱霊は逝去した。享年不明。


評価

朱霊は曹操に仕えてすぐれた将軍となり、名声は徐晃らにつぎ後将軍にまで登り、高唐亭侯にとりたてられた。

243年秋7月、すでに死去していた朱霊は、他の功臣たちと共に太祖の廟に合祀された。


演義

小説『三国志演義』では、正史ほど活躍していない。史実どおりに路昭(史実の路招)共々劉備の袁術討伐に随行するよう、曹操から命じられる。しかし劉備の指示に従い、軍を残したまま路昭と二人だけで許に帰還してしまったため、曹操の怒りを買い処刑されそうになる。荀イクが諫言したために二人は赦された。その後、馬超討伐にも加わり、史実どおり徐晃と共に黄河の西に陣取っている。これを最後に『演義』に出なくなる。