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姓名 | 桓階 |
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字 | 伯緒 |
生没年 | 生没年不詳 |
所属 | 魏 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | 貞侯 |
伝評 | 正義を貫くことに熱心して、主君に対してあえて苦言を呈する臣 |
主な関連人物 | 曹操 曹丕 曹仁 |
関連年表 |
208年 曹操に召しだされる 216年 虎賁中郎将・侍中となる 220年 尚書令となる |
桓階、字を伯緒といい、長沙郡臨湘県の人である。父は桓勝、弟は桓簒、桓彝、子に桓佑、桓嘉らがいる。
郡に仕官して功曹となった。太守の孫堅は桓階を孝廉に推挙し、尚書郎に任命したが、桓階は父の死にあって郷里に帰った。
たまたま孫堅は劉表を攻撃して戦死した。桓階は危難を犯して劉表のもとに出頭し孫堅の遺体を請いうけた。劉表は義侠心をかって彼に孫堅の遺体を与えた。
のちに曹操が袁紹と官渡において対峙すると、劉表は州をあげて袁紹に呼応した。桓階はその太守張羨に進言して、劉表の行動を避難して諌めた。また、道義を説いて張羨に曹操へ内応するように献策した。そこで長沙および隣の三郡をこぞって劉表に抵抗し、使者を曹操のもとに派遣した。曹操はたいそう喜んだ。
たまたま袁紹と曹操が戦闘を続けていたため、曹操の軍はまだ南進できずにいた。ところが劉表は急に張羨を攻撃し、張羨は病死した。城は陥落し、桓階はかくて身を隠した。しばらくたって劉表は召し出して従事祭酒とし、妻の妹の蔡氏をめあわせたいと思った。桓階は既に結婚していると説明し、拒否して受けず、それを機会に病気を理由に退官した。
曹操は荊州を平定すると、桓階が張羨のために画策したと聞いて、彼を評価し、召し出して丞相掾主簿とし、趙郡の太守に昇進させた。
魏がはじめて建国されると、虎賁中郎将・侍中となった。当時太子はまだ決定されておらず、曹植が寵愛を受けていた。桓階はたびたび曹丕の徳がすぐれ年齢が上であるから、太子とするのが当然である旨上申した。
公の席上で忠言したり内密に諫言したり、前後にわたって懇切をきわめた。また毛カイと徐奕は剛直なため仲間が少なく、西曹掾の丁儀によく思われなかった。丁儀はたびたび彼らの欠点をあげつらったが、桓階が弁護したおかげで安全を保つことができた。人の美点を後推しして伸ばしてやり、欠点を匡正し補ってやった彼のこの類の行為は多かった。
尚書に昇進し、官吏の選抜を担当した。
曹仁が関羽に包囲されると、曹操は徐晃を派遣して彼を救援させたが、包囲は解けなかった。曹操は自身で南方征討に赴こうと考え、群臣に意見を求めた。群臣は皆、曹操の征討を薦めたが、桓階だけは、曹仁が心中決死の覚悟で戦っているから、征討する必要はないとして諌めた。かくて関羽は引き退いた。
曹丕が帝位に昇ると、尚書令に昇進し、高郷亭侯にとりたてられ、侍中の官を加えられた。
桓階は病気が重くなった。曹丕は自身で見舞い、彼に幼少の子の後見人として預けるつもりだといって励ました。その後、安楽郷侯に国がえされ、桓階の三人の子に関内侯の爵位を賜った。
のちに桓階は危篤になると、使者を派遣し病床において太常に任命されたが、まもなく逝去した。享年不明。
『魏書』によると、桓階の諫言にいう、「今、太子(曹丕)の仁愛は諸公子第一であられ、名は四海の内にあきらかでして、仁愛の聖徳、充分な節義を、天下の誰一人聞かない者はございません。それなのに大王(曹操)さまには初めに植(曹植)さまのことを私に訊ねられました。臣は実際とまどっております」その結果、曹操は桓階が正義を貫くのに熱心であることを知り、ますます深く彼を尊重した。
小説『三国志演義』では、当初は孫堅の配下として登場し、孫堅が劉表軍と戦った際に戦死した際、その遺骸を引き取る交渉の役を与えられる。史実と同様に曹操の後継者である曹丕の王朝建国に加担。華キンや王朗らと共に宮中に乗り込み献帝に禅譲を迫ったことになっている。