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魏伝


崔琰 季珪さいえん きけい

姓名崔琰
季珪
生没年163年 - 216年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評誠実な人柄で多くの尊敬をされ、曹操の怒りを買い自殺した人物
主な関連人物 曹操 曹丕 司馬懿 
関連年表 197年 騎都尉となる
200年 別駕従事となる
207年 徴事となる
213年 尚書となる

略歴

崔エン(王偏に炎)、字を季珪といい、清河郡東武城県の人である。

年少のころは誠実な人柄で、剣術を好み、武芸を尊んだ。二十三歳のとき、郷(呉の下の行政単位)から公文書をもって正卒に任命された。はじめて発奮して『論語』と『韓詩』を読んだ。

二十九歳になってはじめて公孫方らといっしょになって鄭玄のもとに行き学業を受けた。学業についてからまだ一年にも達しないうちに、徐州の黄巾の賊が攻め寄せて来て北海郡を撃ち破った。鄭玄は門人たちとともに不其山へと避難した。当時、不其県には買い入れ米が乏しかったので、鄭玄は学生たちの教育をことわった。崔エンは退学をいいわたされはしたが、盗賊どもがのさばっており、西方への道路は通じなかった。そのため、青州・徐州・エン州・豫州の田園地帯をめぐり歩き、東に向かって寿春まで下り、南方江・湖の方を眺めやったりした。家を離れてから四年でやっと帰郷し、琴と書物を楽しみとして暮らした。

大将軍の袁紹は聞き知って崔エンを招聘した。当時、袁紹の士卒は乱暴の限りを尽くし、墳墓を発掘した。崔エンは袁紹を諌めて、士卒の教育と徳義について述べた。袁紹は崔エンを騎都尉に任命した。

その後、袁紹は黎陽において兵をととのえ、延津に宿営した。崔エンはまたも諌めて、「天子は許におわします。人民は天子への賛助帰順を待ち望んでおります。境界を保持し、職務を報告し、それによって領内を安定させるのがよろしいかと存じます」と述べた。袁紹は聞き入れず、かくて曹操と戦って官渡で敗れた。

袁紹が亡くなると、二人の子(袁譚、袁尚)は互いにいがみ合い、争って崔エンを味方にひきいれようとした。崔エンは病気と称して固辞した。そのことからとがめを受け、牢獄に閉じ込められたが、陰キと陳琳の救助運動のおかげで、免れることができた。

曹操が袁氏を破り、冀州の牧を占めると、崔エンを召し寄せて別駕従事とし、崔エンに向かって、「昨日、戸籍を調べてみたところ、三十万の軍勢を手に入れることができる。したがってこの冀州は大州ということになる」崔エンは答えて、「現在、天下はこなごなに崩壊し、九州はちりぢりに分裂しております。二袁兄弟は自分から武器を使用し、冀の国の民衆は白骨を野原にさらしています。ところが進軍に先んじて天子の軍隊の仁愛のお声がかかり、民の風俗をお訊ねになり、彼らの塗炭の苦しみを救われたというような話をまだ聞きませぬうちに、武装兵の数を調べられ、ひたすらそのことを優先されるとは、いったい士民女子が明公に期待していたことでございましょうか」といった。曹操は態度を改めて彼に陳謝した。その場面で、賓客たちは恐怖のあまり皆うつむき顔面蒼白となった。

曹操は并州を征討したとき、崔エンをギョウに留めておき、曹丕をたすけさせた。曹丕はしきりに狩猟に出かけ、衣服と馬車を改め、頭にあるのは獲物を追いたてることだけだった。崔エンは文書によって諌めると、曹丕は、「先日かたじけなくもよきご忠告を下さり、高慢な道理を教示された。今後これに似たことがあれば、また教えを乞う」といった。

曹操が丞相となると、崔エンはまたも東曹さらに西曹の属官となり、徴事となった。魏国が建国された当初、尚書に任命された。

当時まだ太子を立てていず、曹植は才気があってかわいがられていた。曹操は決断がつかず、封緘された文書によって内密に外部の者に諮問した。そのうち崔エンだけが封なしの書面で返答し、「思うに、『春秋』のたてまえでは、あとつぎに子を立てる場合、年長者を選ぶと聞いております。そのうえ、五官将は愛情深く孝行で、聡明であられます。正しい血統を引き継がれるのが当然と存じます。わたくしは死をもってそのことを守りとおします」曹植は崔エンの兄の娘の婿であった。曹操は崔エンの公明さを尊敬し、ふうっと感歎のためいきをもらし、中尉に昇進させた。

崔エンは以前鉅鹿の楊訓を、才器は不足するが清潔誠実で道義を守っていると推薦し、曹操はすぐさま礼を具えて彼を招聘したことがあった。その後、曹操が魏王となったとき、楊訓は上奏文を差し出し、曹操の功績を讃美し、盛徳を称揚した。当時の人々のうちには、楊訓の時世におもねり事実をごまかす軽薄さを嘲笑し、崔エンは推挙する人をまちがったと考える人がいた。崔エンは楊訓から上奏文の草稿をとりよせ、それを読んで楊訓に手紙をやって、「上奏文を拝見したが、内容がよい耳だ。時よ時よ。必ず時代の変化があるにちがいない」崔エンの本心では、あれこれいう者に好んで咎めだてしているばかりで、情理を考えていないことを非難したつもりだった。ところが崔エンのこの手紙は世間をばかにしていた怨恨誹謗のしろものだと奏上する者がいた。

曹操は怒って、崔エンを処罰して懲役囚とし、人をやって様子を見させると、言葉・態度ともにくじけた様子がなかった。曹操は命令を下して、崔エンに死を賜わった。

『魏略』によると、ある人が崔エンの手紙を手に入れ、それを頭巾を入れる籠の中に包みこみ、都の大通りの真ん中を通って行った。そのとき、ずっと前から崔エンと仲の悪かった男がいて、遠くから崔エンの名が頭巾の籠にくっついているのを見つけた。側によってそれをよく見ておき、そのことを申し立てた。曹操は崔エンが腹の中では非難の気持ちを抱いているのだと判断した。そのため逮捕して投獄し、頭髪を剃り落とす刑罰に処し懲役囚とした。先に崔エンを告発した男はまたまた彼のことを申し立てて、曹操は崔エンを殺そうと考えた。そこで清潔公平な事務官を出向かせて崔エンと行動をともにさせた。事務次官は命令して、「三日して必ず様子を知らせよ」といったが、崔エンは気付かなかった。数日たって、事務官はわざと崔エンの落ち着いた様子を申し上げた。曹操は、「崔エンはどうあってもわしに刑具を使わせるつもりだな」事務官はこの仰せを崔エンに知らせた。崔エンは事務官に礼を述べてから、「わしはまったくうかつであった、公の気持ちがそこまで来ているとは知らなんだ」かくて自殺した。


評価

崔エンは音声・容姿とも気品があってのびやか、顔かたちは明るく広やか、髯の長さは四尺、ひじょうに威厳があった。朝廷の官僚たちは仰ぎを慕い、曹操まで遠慮して敬意を示した。

『先賢行状』によると、崔エンは清潔忠誠、からりとした人がらで、未来を見通す見識をもち、公正な生き方を貫き、朝廷において厳正な態度をとった。魏氏が権力を握った初年、官吏選考の役目を委任され、十年余りの間、人物評価をとりしきった。文武それぞれにわたって才能を有する人々を、数多く見分け選抜した。朝廷はその高い見識を頼りとし、天下はその公平さをたたえた。

そのむかし、崔エンは司馬朗と親しかった。司馬懿がちょうど成年に達したところだったが、崔エンは司馬朗に向かって、弟の聡明誠実、剛毅果断、すぐれた人物であるといった。

崔エンの従弟の崔林は、若いころ名声がなく、婚戚でさえも彼を軽視する者が多かったが、崔エンはいつも、崔林は大器晩成だといっていた。孫礼と盧毓がはじめて曹操の軍の役所に登用されたとき、崔エンはまた彼らのことを宣伝して、孫礼は磊楽激烈、剛毅でよく決断ができ、盧毓は明敏で道理に明るく、鍛えてもつぶれることはないといった。その後、崔林、孫礼、盧毓はみな三公にまでなった。

また、崔エンの友人であった公孫方と宋階は早く亡くなったが、崔エンは彼らの遺児をかわいがり、その恩愛はわが子に対するのと同じであった。彼の人物を見抜く見識と厚い義理人情は、すべてこのようなたぐいであった。


逸話

『世語』によると、曹植の妻(崔エンの兄の娘)はぬいとりのある衣服を着ていた。曹操は台に登っているときそれを見て、規則に違反しているとして、家に帰して死を命じた。