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蜀漢滅亡

後漢伝


丁奉 承淵ていほう しょうえん

姓名丁奉
承淵
生没年? - 271年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評呉末期を支えた中心人物にして、魏と対峙した勇将
主な関連人物 孫権 孫亮 孫休 孫晧 
関連年表 252年 寇軍将軍となる
255年 虎威将軍となる
257年 左将軍となる
260年 徐州牧となる
263年 寿春の戦い
264年 右大司馬左軍師となる
268年 合肥の戦い
269年 穀陽の戦い

略歴

丁奉、字を承淵といい、盧江郡の安豊の人である。弟は丁封がいる。

若くして、勇猛であるということで小さな部隊をあずけられ、甘寧、陸遜、潘璋らの指揮下に入った。しばしば征伐に参加して、戦闘の中でいつも抜群の手柄を立て、きまって敵の大将を斬り軍旗を奪い、身には大小の傷をうけた。やがて偏将軍にまで昇進した。

孫権が崩御し、孫亮が即位すると、寇軍将軍に任ぜられ、都亭侯に封じられた。

魏が諸葛誕や胡遵らをおくって東興に攻撃をかけてくると、諸葛恪が軍の指揮にあたってこれをくい止めた。部将たちがそろって、敵は諸葛恪みずから来られたことで動揺するから、必ず逃げるといった。丁奉ひとりがそれに反対して、敵は国中を動員して押しかけて来たので、こけおどしをかけただけで引かないと主張した。

諸葛恪が上陸すると、丁奉は将軍の唐咨、呂拠、留賛らとともに、山岳地帯を通って西方に向かい、上流に出ようとした。丁奉は各軍団の行動が遅く、敵に有利な場所を占拠されることを懸念し、ほかの軍団には別に下の道を取らせ、自分の配下の三千人を率いてまっすぐ突き進んだ。

このとき、北風が吹いていたので、丁奉は船に帆をかけて二日で戦場につき、そのまま陣営を張った。天候は寒くて雪が降って、敵の部将たちは酒を飲み盛んな酒宴を開いていた。丁奉は、敵の兵士たちが少ないので、配下を奮い立たせてこれを攻撃をかけさせ、さんざんに打ち破った。ちょうどそのとき、呂拠たちの軍も到着したので、魏の軍は潰走した。滅寇将軍に昇進し、都郷侯に封じられた。

魏の文欽が投降を申し入れてくると、丁奉は虎威将軍に任ぜられ、孫峻に従って寿春まで行って文欽を迎え取ることになった。文欽が追ってきた敵の軍と高亭で遭遇し、これと戦った。丁奉は馬にのり矛を持つと、敵の陣中に突入し、数百の首級を挙げ、敵の軍旗奪い取った。この功績で、安豊侯に封じられた。

257年、魏の大将軍の諸葛誕が寿春城に立てこもって呉に降りたいと申し入れてきた。魏の軍はこれを包囲して呉へ走るのを阻止しようとした。朱異や唐咨らが派遣されて諸葛誕の救援に向かい、さらに丁奉と黎裴とが包囲を切り崩すよう命令を受けた。丁奉は突撃隊長となり、積極的に戦って功績をあげ、左将軍に任ぜられた。

孫休は即位すると、張布と謀って、孫リン(リンは糸偏に林)を誅殺しようと企てた。張布がいって、丁奉を召し寄せて、誅殺させる協力を仰ぐようにいった。孫休は丁奉の計略を容れて、孫リンを斬った。

260年、仮節を授かって、徐州の牧の任にあたった。

263年、魏が討伐の軍を進めてくると、丁奉は多くの軍団を率いて寿春に向かい、魏を牽制して蜀の援護をしようとした。蜀が滅亡したので、寿春から軍を引き上げた。

孫休が崩御すると、丁奉は、丞相の濮陽興らと計り、万イクの意見に従って、孫晧を迎えて帝位に即けた。この功績により右大司馬左軍師に昇進した。

268年、孫晧は丁奉に命じ、諸葛セイと共同して合肥に攻撃をかけた。丁奉は、計略を用い、晋の大将の石苞にありもしないことを述べた手紙を送って、晋の内部に疑惑をおこさせた。石苞はこのため帰還して免職された。

269年、丁奉は人々を指揮して、晋の穀陽に攻撃をかけた。穀陽の住民たちは前もってそれを察知し、ひきつれて城を去ったので、丁奉はなにも手に入れることができなかった。孫晧は腹を立てて、丁奉の配下の導軍を斬った。

271年、丁奉は死去した。享年不明。


評価

丁奉は武勇だけでなく、知略にも優れていた。張布は「丁奉は事務的な能力はないが、巧みに計略をめぐらし、実行力に優れている」と評している。

晩年は、身分が上がり手柄をかさねるにしたがって、おごり高ぶるようになった。このことを非難する者があって、孫晧は、彼の死後、さきの軍事行動の失敗を取り上げて、丁奉の家族を臨川に強制移住させた。


演義

小説『三国志演義』では、赤壁の戦いのときから登場し、周瑜により徐盛と共に諸葛亮を殺害するように命じられるなど、一世代上の人物が存命中は損な役回りが目立つ。ただし、丁奉の生年は190年頃とされている[要出典]ため、孫権に早くから仕えていたとしても、赤壁の戦いですでに武将だったのかどうかには疑問がある。

224年に魏が侵攻してきたときには、徐盛の副将として張遼を射殺するという武功を挙げている。

『民間伝説』では「つぶて」の名手とされる。諸葛亮が丁奉らの元から逃げる際、腰に提げていた袋の中から鉄のつぶてをとりだして、諸葛亮の船の帆柱に照準を合わせて腕をふりあげると、空気を引き裂くような音がして、黒い塊が帆柱の先めがけてとんでいき、帆を引っ張る滑車に命中し、諸葛亮の船の帆が落ちて諸葛亮の部屋の上に覆いかぶさった。
趙雲はあわてて槍先でその帆をどけて諸葛亮を救い出し、船を捨てて岸にあがると東南の方向に逃げていった、という話がある。

いまでも廟に祭る丁奉の像にはふたつの鉄のつぶてが握られている。