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姓名 | 呂範 |
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字 | 子衡 |
生没年 | ? - 228年 |
所属 | 呉 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 周瑜と共同して赤壁で曹操を破り、いくつもの呉を防衛した指揮官 |
主な関連人物 | 孫権 孫策 |
関連年表 |
196年 江東平定 208年 赤壁の戦い 219年 建威将軍・丹陽太守となる 222年 洞口防衛 |
呂範、字を子衡といい、汝南郡の細陽の人である。子は呂拠がいる。
若くして県の役人となった。彼は、おしだしが立派で風采が上がった。郷里の町の劉氏は、家が豊かで美しい娘がいた。呂範がその娘を妻にと求めたところ、娘の母親は呂範が気に入らず断ろうとしていた。しかし、劉氏は、「呂子衡どのを見てみると、ずっと貧しいままで終わるような人物ではない」といい、娘との結婚を許した。
後に戦乱を避けて寿春に行った際、孫策が彼に会ってその人物を高く評価し、呂範はそこで自分のほうから臣下の礼を執り、食客百人をひきつれて孫策のもとに身を寄せた。
このころ太妃(孫堅の夫人呉氏)が江都にいたため、孫策は呂範を使者として迎えに行かせ、太妃を自分のもとにつれてこさせようとした。徐州の牧の陶謙は、呂範が袁氏の手先として情勢を探りに来たのだと考え、県の役所に指示して呂範を拷問にかけて取調べさせた。呂範が目をかけた食客や血気の兵士たちが彼を奪い取って帰った。
呂範と孫河とだけがつねに孫策に従い、山野を跋しょうして苦労をなめ、危難も避けることがなかった。孫策のほうでも呂範を身内として遇し、つねに奥座敷に通して、太妃のいる席で酒食をふるまった。
のちに孫策の配下として盧江を攻撃してこれを打ち破ったあと、軍を還して孫策とともに江東に渡り、横江・当利まで軍を進めて張英と于麋とを打ち破り、小丹陽と湖ジュクとを降すと、呂範は湖ジュクの相の任にあたった。
孫策は、秣陵と曲阿とを平定してサク融と劉ヨウの残党を自分の軍勢に収めると、呂範に配下の兵二千と騎馬五十匹とを増やしてやった。のちに宛陵県の令の任務にあたり、丹陽の不服従民たちを討って打ち破った。呉に戻って、都督に昇進した。
このころ、下ヒの陳ウは、勝手に呉郡太守を称し、広陵郡の海西に軍を留めて、大きく勢力を張った厳白虎の一味と連絡を取り合っていた。孫策は、みずから軍を率いて厳白虎を討伐する一方、別に呂範と徐逸とを派遣して陳ウに攻撃をかけさせ、呂範らは敵の配下の大将である陳牧を斬ってその首をさらしものとした。
さらに丹陽郡の陵陽にいる祖郎や勇里にいる太史慈の攻撃に参加した。七つの県が平定されると、征虜中郎将の官を授かった。江夏に遠征し、軍を還してハ陽を平定した。
孫策が逝去すると、呂範は呉での葬儀にかけつけた。のちに孫権がふたたび江夏に遠征したときには、呂範は張昭とともに呉に留まってあとの守りにあたった。
曹操が赤壁までやって来ると、呂範は周瑜らとともにこれを防ぎ止めて打ち破った。この功績により、裨将軍の官を授けられ、彭沢太守の任にあたり、彭沢・柴桑・歴陽を知行所として授かった。
劉備が京口にやってきて孫権に目通りしたとき、呂範は、劉備をこのまま呉に留めておくようにと献策した。
のちに平南将軍に昇進し、柴桑にその軍を駐屯させた。
孫権は、関羽の討伐に向かうに先立ち、呂範の館を訪れると、彼に向かって、「昔、あなたの意見に従って劉備を呉に留めておけば、こんな苦労もなかったのだ。いま長江をさかのぼって関羽を捕えにゆくが、あなたは、私に代わって建業の守りにあたって欲しい」といった。
孫権は、関羽を破って軍を還し、武昌に都を定めると、呂範を建威将軍に任じ、宛陵侯に封じ、丹陽太守の任務にあたって、建業にその役所を置かせ、扶州から海にいたるまでの地域の軍の指揮にあたらせ、以前の知行所のかわりの三県を与えた。
魏の曹休、張遼、臧覇らが来襲すると、呂範は、徐盛、全ソウ、孫韶らを指揮して、水軍を動かし洞口において曹休らの進攻をくい止めた。これに際して呂範は前将軍に昇進し、仮節を授かり、南昌侯に改封された。このとき、暴風が吹いて、船が転覆し水夫たちが溺れ、死者が数千人にのぼったため、軍を引き上げた。ついでに揚州牧の任も授かった。
228年、呂範は大司馬に昇進したが、そのしるしの印綬が下賜されぬうちに、病気のために死去した。享年不明。孫権は喪服をつけて親しく哭礼を行い、使者を派遣して遺族に印綬を追贈した。
呂範は、格式ばったことが好きな性格で、揚州に住む陸遜や全ソウ、それに貴公子たちも、みな彼に対して州牧として尊敬をはらって、鄭重な応対をし、軽々しい行動を取ることがなかった。
彼の住まいや衣服は、当時としては奢侈なものであったが、仕事に励み法律を尊重していたので、孫権は彼の忠誠を喜んで、その奢侈を咎めだてしなかった。
かつて孫策が呂範に会計を預からせたことがあった。孫権は、そのころまだ年が若く、密かに呂範のもとにやって来て金をせびったが、彼は必ず孫策に上言して許しを求め、自分勝手に金を与えることはしなかった。この当時、このことで呂範は孫権の怨みを買っていた。孫権が県の長の役目をつとめていたとき、公金をいささか私用に使うことがあったので、孫策が会計を監査することがあると、功曹の周谷はいつも孫権のために帳簿を書き加えて、問責を免れるように取り計らった。孫権は、そのときにはこれを喜んでいたのだが、のちに孫権が呉国全体を治めるようになると、呂範は忠誠な人物として信任し、周谷は任用しなかった。
『江表伝』によると、都を建業に戻して、盛大に酒宴が行われたときのこと、厳シュンは、孫権が魯粛と呂範を実質以上の評価をし過ぎるのではないかと、納得できないと漏らしたことがあったので、孫権は呂範について、「奢侈を好む性格ではあったが、他の軍務に悪影響あったわけではなく、みずから軍を編成し、本来の職務も慎み励み、忠誠心篤くまっすぐであって、かつての呉漢に似ている」といった。厳シュンはこれを聞いて納得した。
小説『三国志演義』では孫策と孫権の謀将、参謀として登場する。
当初は袁術の配下であったが、袁術からの独立の密議を孫策と朱治とがおこなっていることを聞きつけ同心することを申し入れ、孫策の配下に加わっている。
孫権の時代には、周瑜とともに婚礼のために呉を訪問していた劉備の暗殺を進言し、賈華を使い実行しようとし、事態が明らかになると賈華にその責任をなすりつけている。
関羽討伐のときは占いで関羽の退路を予測する(正史で占ったのは呉範)場面が描かれる。