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姓名 | 徐盛 |
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字 | 文嚮 |
生没年 | 生没年不詳 |
所属 | 呉 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | いくつもの呉の危機を救う戦に赴き、活躍した武人 |
主な関連人物 | 孫権 蒋欽 周泰 |
関連年表 |
213年 濡須口の戦い 222年 夷陵の戦い 223年 安東将軍となる 224年 広陵の戦い |
徐盛、字を文嚮といい、琅邪郡の人である。子は徐楷がいる。
世の中が乱れてきたので、故郷を棄てて呉郡に仮住まいし、度胸と義気とがあることで人々に知られた。
孫権が呉の勢力を取りまとめると、徐盛を別部司馬に任じて、兵士五百人を授け、柴桑県の長の任にあたりつつ、黄祖の進出をくい止めさせた。
黄祖の子の黄射が、あるとき、数千人を率い、長江を下って徐盛に攻撃をかけて来たことがあった。徐盛の手もとには、そのとき、軍吏と兵士とをあわせても二百人に満たぬ数しかいなかったのであるが、これを迎えて一歩も引かずに戦い、黄射の軍千余人に傷を与えた。そのあと、城門を開いて追撃し、敵を徹底的に打ち破った。黄射は、このことがあって以降、二度と侵攻してくることがなかった。この功績で、校尉に任ぜられ、蕪湖県の令となった。
ひきつづいて宜城の臨城の南辺に住む山越の不服従民たちを討伐して功績を挙げ、中郎将に転じて、兵士たちの監督と選抜とをつかさどった。
曹操が濡須へ軍を進めてくると、徐盛は孫権の指揮のもとでこれをくい止めるために戦った。魏が大挙して横江まで兵を進めてきたが、呉は蒙衝(駆逐艦)に乗っていて、激しい風にあって敵方の岸辺に座礁した。部将たちは恐れて誰も船から出ようとしなかったが、徐盛ひとりは兵を率いて岸に上がると、敵方へ突撃をかけて打ち破った。孫権は、彼の勇敢さを大いに称賛した。
孫権が魏の下についてその藩を称することになったとき、魏はケイ貞を使者として遣わし、孫権に呉王の称号を授けさせた。孫権はケイ貞を出迎えて、威張った様子をしていた。張昭が腹を立てただけでなく、徐盛も憤激していっしょに並んでいる人々を顧みて、「我々身命を賭して、国のために尽くし、許や洛、巴蜀を兼併できずにいるため、わが君に盟約を結ばねばならないようにさせてしまった」そういうと涙を滂沱と流して泣いた。ケイ貞はこのことを聞き、同行している者たちにいった、「江東の部将や宰相たちがこんなふうでは、呉はいつまでも下に付いてはおるまい」
のちに徐盛は、建武将軍に昇進し、都亭侯に封じられ、盧江太守の職務をあたって、臨城県を賜った。
222年、劉備が西陵まで出てきてそこに軍営を置くと、徐盛はそれに攻撃をかけて蜀の屯を奪取し、軍を向けるところことごとく手柄をたてた。
曹休が洞口まで軍を進めてくると、徐盛は呂範や全ソウとともに長江を渡って曹休の軍をくい止めた。曹休は押し寄せて攻撃してきたが、徐盛は寡勢でもって敵の大軍を防ぎ止め、敵は戦果を挙げることができぬまま、軍をまとめて引き上げた。この功績で安東将軍に昇進し、蕪湖侯に封じられた。
のちに、魏の曹丕みずから大挙して軍を進めてくると、長江をおし渡ろうと企てた。徐盛は献策をし、建業からずっと防護のための壁を作り、それにすだれを架けわたし、壁の上に仮作りのやぐらを作りつけ、長江上には船を浮かべ、敵が近づいて偽の城壁だと察知するのを防がせればよいとの意見を述べた。部将たちは無駄だといったが、徐盛は譲らず、強硬に主張してこれを作った。曹丕はやって来て、防護壁をながめてびっくりし、それが数百里に及んで、しかも長江の水かさも増していたことから、そのまま軍をまとめて退却した。反対していた者たちは、ここに至って彼の計略の正しさを認めたのであった。
黄武年間に、徐盛は死去した。享年不明。おそらく224年から229年の間に死んだと思われる。
陳寿の評では、「江南の勇猛の臣の一人であり、孫氏が手厚く遇した者である」として称えて、加えて、「東南の地を確保して割拠することができたのも、しかるべき理由があったといえよう」と呉を支えた人物の一人として挙げている。
小説『三国志演義』では、新たに呉の国主となった孫権が広く人材を求めていたとき、招かれて家臣となった人物の一人として名があがる。武勇肌の強い猛将肌の人物として描かれる。
当初は周瑜の側近の武将として、丁奉とペアで行動することが多く、赤壁の戦いで東南の風を祈祷で呼び寄せた諸葛亮を殺す命令を受けるが失敗し、さらに孫夫人を連れて呉から逃亡しようとする劉備を丁奉とともに抑留しようとするが、孫夫人に一喝されて取り逃がし、蒋欽や周泰から叱責されている。周瑜の死後も呉の部将の一人として各場面で登場し、曹操との戦いで孫権が窮地に追い込まれたときは、孫権ともども敵中に取り残されるが、周泰の決死の働きで救われている。
正史にある、孫権が呉王に封じられた場面での言動や、曹丕を欺いた偽城のことは『演義』にも描かれており、これが徐盛の存在を際立たせている。曹丕との戦いは正史における224年と225年の二度の広陵の戦いがモデルとなっている。孫権は陸遜を総大将にして迎撃しようとしたが、陸遜は荊州の守備があって駆けつけられない。そこで、徐盛が自ら志願して総大将となり、魏軍を迎え撃つこととなった。副将として、丁奉の他に宗室の若手の武将の孫韶を付けられるが、孫韶がたびたび意見をして命令にも逆らったため、やむなく処刑しようとした。孫権が割って入り孫韶は処刑を免れたものの、反省を示すことはなく、まもなく徐盛に無断で魏軍に奇襲をかけに行ったため、徐盛は丁奉に命じて孫韶を援助させるとともに、正史同様の偽城の計を成功させ、魏軍を撤退させた。撤退する魏軍を孫韶や丁奉が奇襲し、徐盛も追撃をかけ魏軍に大打撃を与え、最後は葦の生い茂った箇所を魏の大船団が通過しようとしたところを火攻めにして魏の大軍20万を粉砕した。演義では、この戦において魏軍が受けた被害は赤壁の戦いに匹敵するものとして描かれている。