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姓名 | 魯粛 |
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字 | 子敬 |
生没年 | 172年 - 217年 |
所属 | 呉 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 先見の明にして孫権を導き、蜀と友好を築いた参謀 |
主な関連人物 | 孫権 孫策 周瑜 呂蒙 |
関連年表 |
208年 赤壁の戦い 210年 総司令官となる 215年 益陽会見 |
魯粛、字を子敬といい、臨淮郡の東城の人である。子に魯淑がいる。生まれるとすぐ父親を亡くし、祖母といっしょに生活をした。
家は富裕で、魯粛は好んで人々を経済的に援助した。当時、天下はすでに騒がしくなっており、魯粛は家業をうっちゃらかし、財貨を盛大にばらまき、田畑を売りに出して、困窮している人々を救い、有能な人物と交わりを結ぶことに努めて、郷里の人々の心をつかんだ。
周瑜が居巣県の長となると、数百人をつれてわざわざ魯粛のもとに挨拶にきて、同時に資金食料の援助を求めた。魯粛の家には二つの倉に蔵めた米があり、一つの倉を指さして、それをそっくり周瑜に与えた。周瑜は、こうしたことから、親しい交わりを結び、厚い友情を固めた。
袁術が魯粛の名声が高いのを聞いて、東城県の長に任じた。魯粛は、袁術のやることが支離滅裂であって、共に大事を成すには足らぬと見てとると、老人や子供たち、若者らを引き連れて、居巣にいる周瑜のもとに身を寄せた。周瑜が長江を渡って東方に進むと、それに同行し、家族は曲阿に住まわせた。ちょうどその頃、祖母が死ぬと、魯粛は葬儀を行うため、東城に帰った。
友人である劉曄が、魯粛を誘って北(曹操)へくるよう手紙を出したので、曲阿にもどって出発しようとした。そのとき、周瑜が魯粛を尋ねて説得して、呉へ招いた。周瑜は、孫権に魯粛を推薦したので、魯粛は孫権と会い、語り合って大いに喜んだ。孫権は彼を尊重し、重く任用した。
荊州の劉表が死ぬと、魯粛は孫権を説いて、荊州の人心をつかんで共同し、曹操に対抗するため、弔問に赴いた。しかし、荊州はすでに曹操に服従したので、当陽の長阪で劉備と面会し、孫権と力を合わせるよう説いた。
魯粛は、諸葛亮とともに帰還し、孫権が曹操に帰順することを拒絶すべきことを説き、帝王として自立するための策を論じた。孫権は、周瑜を派遣して劉備に助力させた。周瑜は総司令官となり、魯粛は賛軍校尉(総参謀)に任命された。
曹操が赤壁で大敗を喫して逃走したあと、魯粛は真っ先に帰還した。孫権は、魯粛を出迎え出て、功を称えて答礼した。
劉備が京にやってきて、荊州の都督とならせてほしいと求めたとき、魯粛だけが、荊州の土地を劉備に貸し与え、協同して曹操を退けるのがよいと、孫権に勧めた。曹操がその知らせを聞くと、ちょうど手紙を書いていたのであるが、その筆を床に取り落した。
周瑜は、病気が重態になったとき、魯粛に跡を引き継がせようと、孫権に遺言を残した。すぐさま魯粛は奮武校尉に任命され、周瑜に代わって兵を率いた。もともと江陵に軍を置いていたが、のちに長江を下って陸口に駐屯した。
214年、魯粛は、孫権に従って出征し、皖城を破った。そののち、横江将軍に転じた。
劉備が益州平定を完了すると、孫権は貸し与えてあった長沙・零陵・桂陽の返還を求めたが、劉備はこの申し入れを拒絶した。孫権は、軍勢を率いて侵攻し、占領させようとした。劉備は、この知らせを聞くと、関羽を派遣して抵抗させた。魯粛は、益陽に軍を留めると、関羽と対峙して、会見を申し入れ、ただ軍の指揮者たちだけが護身用の刀一つを身につけて臨んだ。かくて三郡は返還された。
217年、死去した。享年46歳。孫権は魯粛のために哭礼を行い、またその葬儀には親しく臨席した。諸葛亮もまた彼のために喪に服した。
『正史』では、虚虚実実の渡り合いを見事にこなし、沈着冷静にして剛毅な人柄であることがうかがえる。特に、赤壁の戦い以降、煩雑な情勢を巧みにあしらい、あわよくば荊州をものにせんとする蜀を退けるなど、外交官、行政官としても卓越した手腕の持ち主であり、柔軟さに優れた戦略家であった。
一方、小説『三国志演義』では、知略に優れた人物として扱われつつも、温厚かつお人よしな性格のために諸葛亮にいいようにやられ、周瑜になじられるという損な役回りを演じている。また、正史では成功した関羽との交渉も、演義ではけんもほろろに追い返されてしまっている。こうしたキャラクターのためか連環画などではその性格を表した風貌に描かれることが多い。
若い頃から、財産をなげうったり、剣術・馬術・弓術などを習い、私兵を集め兵法の習得などに力をいれていた。郷里の人々には理解されず、村の長老には、「魯家に、気違いの息子が生まれた」と、までいわれた。
孫権が帝位に即くことになり、即位の儀礼のための壇に登るに際して、公卿たちのほうを振り返って、「昔、魯子敬どのはこうなるであろうと申したことがあったが、事の成り行きの見せる人物であったといえよう」といった。