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呂布が董卓を殺害する

後漢伝


薛綜 敬文せつそう けいぶん

姓名薛綜
敬文
生没年? - 243年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評弁舌に優れ、文章に巧み、博識だった有能な人物
主な関連人物 孫権 呂岱 孫和 
関連年表 231年 長史となる
240年 選曹尚書となる
242年 太子少傅を兼任する

略歴

薛綜、字を敬文といい、沛郡の竹邑の人である。子は薛ク、薛瑩がいる。戦国時代(斉・魏・秦)の宰相孟嘗君の末裔である。

若い時代、一族の者をたよって交州の地に疎開をし、その地にいた劉煕のもとで学問をうけた。士燮が孫権に味方するようになると、孫権は薛綜を召し寄せて五官中郎将に任じ、合浦と交趾の太守にあてた。この当時、交州の土地はやっと開けたばかりで、刺史の呂岱が軍を率いて討伐を行っていた。薛綜もそれに同行し、海を渡って南方へすすみ、九真にまで足をのばした。南方での役目が終わって都に帰ると、謁者僕射の任務を代行した。

呂岱が交州から中央に召し出されることになったとき、薛綜は呂岱の後任に適切な人物が得られない場合のことを心配して、上疏して交州の安定を図るための施策を述べ、過去の過ちを正すべき例を出して具申した。

231年、建昌侯の孫慮が鎮軍大将軍となって、その幕府を半州に置くと、薛綜を長史に任じて、役所の諸般の事務を統括させる一方、私的には書物を与えて自由に学問をさせた。孫慮が死去すると、薛綜は中央政府に入って賊曹尚書の任務にあたり、やがて尚書僕射に昇進した。

この当時、遼東の公孫淵がいったんは呉に降りながらまた叛いて呉の使者を殺したことから、孫権はひどく腹を立て、みずから公孫淵を討伐すると言い出した。薛綜は上疏して諌めて、帝王として広く視野を持ち、公孫淵はみずから滅亡を辿ることを述べた。このとき、他の群臣たちも多数、諌めの意見を述べたため、孫権は結局、遼東遠征にむかうことがなかった。

240年、選曹尚書の官に移り、242年には、太子少傅に任ぜられて、選曹尚書の職務ももとどおり兼任した。

243年、薛綜は死去した。享年不明。


逸話

あるとき蜀の使者の張奉が、孫権の御前で尚書のカン沢の姓名を分解し、意地悪い解釈をつけて笑いものにしたのに、カン沢はやり返すことができなかった。薛綜はみずから酒を酌してまわり、酒をすすめるついでに、「蜀とはなんでありましょう。犬がいるとひとりになり、犬がいないと蜀となり、目を横につけて身をかがめ、お腹には虫が入っております」といった。張奉が、「あなたの呉についても分解して解釈してみてくれないか」薛綜は即座に答え、「口がなければ天となり、口があると呉になります。万邦に君臨して、天子の都なのであります」これを聞いて喜びさんざめき、張奉は返す言葉もなかった。彼の言葉と行いの敏捷さは、みなこの例のようであったのである。

『江表伝』によると、蜀の費イが呉の国を公式訪問したときのこと、御前で謁見をし、公卿や侍臣たちもその場にいた。酒が出されて宴も盛り上がってきたころ、費イは諸葛恪を相手にして互いに悪口の言い合いをしていたが、話題は呉と蜀との優劣のことになった。費イが尋ねて、「蜀の字はいかなる意味か」諸葛恪は、「水があれば濁り、水がないのが蜀であって、目を横にし身を句(かが)めて、お腹には虫が入っておる」費イが重ねて尋ねて、「呉という字はどういうことか」諸葛恪は、「口がなければ天で、口があれば呉であって、下は青海原に臨み、天子の帝都であるのです」といった。

このように同じような逸話が残されているが、推測するに後者は薛綜の言葉を諸葛恪が真似て回答した可能性も否定できない。


評価

薛綜は若いときから経典に精通しており、文章が巧みで、秀れた才能をそなえていた。

正月乙未の日、孫権は薛綜に勅を下して、皇祖に対する祝詞に、今年はこれまで用いてきた文章を用いてはならないといいつけた。春の例祭は迫っていたので、薛綜はその詔をうけると、いそいで文章を書き上げたが、内容のある鮮やかで美しい言葉から成っていた。孫権が、「さらに二編を作り、三編一組の数を満たすように」といった。薛綜はさらにニ編の祝詞を作ったが、その言語はすべて借り物ではなく、人々は口を揃えてほめそやした。

薛綜の著として詩・賦・議論文など数万言があり、「私載」と名付ける文集にまとめられた。ほかに「五宗図述」と「ニ京解」とを完成させ、これらはともに世間に広く伝えられた。

『呉書』によると、のちに孫権は薛綜に紫色の綬(官印につけるリボン)と嚢(官印を入れる袋)とを下賜した。薛綜は、紫色は臣下の身につけるべきところではないといって辞退をした。孫権が、「太子はまだ年が若く、道をふみ行うこともまだ日が浅い。あなたには、文化的教養によって太子を幅広い人間とし、礼によって太子の行動に節度あらしめていただかねばならない。国家への功労者として封侯のさたを受けるのに、あなた以外に誰があろう」といった。この当時、薛綜はすぐれた学者として師傅(太子の教育係り)の任にあり、加えて官僚たちの人事にもあたって、手厚い待遇を受けていたのである。

陳寿の評によると、深い学識をそなえ、主君に対してしばしば諌めを行って、呉の国にとって有益な臣下であった、と述べている。