登録人物伝 326 名 | 107人が閲覧中
姓名 | 全琮 |
---|---|
字 | 子璜 |
生没年 | 196年? - 249年? |
所属 | 呉 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 呉の重臣として待遇され、孫権の娘を娶った勇猛な将軍 |
主な関連人物 | 孫権 呂範 陸遜 |
関連年表 |
222年 綏南将軍となる 225年 九江太守となる 228年 石亭の戦い 229年 衛将軍・左護軍・徐州牧となる 246年 右軍司馬・左軍師となる |
全ソウ([王]偏に[宗])、字を子コウ([王]偏に[黄])といい、呉郡の銭唐の人である。父は全柔、子は全緒、全奇、全懌、全呉らがいる。妻は孫権の娘、孫魯班である。
父親の全柔は、漢の霊帝の時代に考廉に推挙され、尚書郎右丞に当てられたが、董卓が朝政を乱すと、官位を棄てて故郷に帰った。揚州の役所が彼を召し寄せて別駕従事に任じ、のちに詔書がくだされて会稽東部都尉の官に任ぜられた。
孫策が呉郡にやって来ると、全柔は、配下の兵を引き連れて真っ先にその配下に入り、孫策は上表をし許可を得て、彼を丹陽都尉に任じた。
孫権が車騎将軍に任ぜられると、全柔をその将軍府長史に任じ、のちに桂陽太守に移った。
全柔があるとき、全ソウに命じ、米数千石を運んで呉に行き、その米を売って必要な物を買って来させようとした。全ソウは呉に着くと、米をみな人々に分かち与えて使ってしまい、船には何も積まずに帰ってきた。全柔が大いに立腹すると、全ソウは平伏して、士大夫たちの苦しみをみて彼らの生活をみかねてやったと謝罪した。全柔はこれを聞くと、以前にまして全ソウの非凡さを認識した。
この当時、中原の士人たちで、戦乱を避けて南方に移住し、全ソウをたよって住みつく者が何百家族という数にのぼった。全ソウは、家財を傾けてそうした人々を援助し、持てる物はすべて彼らと共にした。こうしたことから全ソウの名は遠近に聞こえることとなった。
のちに孫権は、全ソウを奮威校尉に任じ、兵士数千人を授けて、山越の討伐を命じた。それに際して兵卒の募集を行い、精鋭の兵卒一万余人を手に入れることができた。その駐屯地を牛渚にまで進め、やがて偏将軍まで昇進した。
219年、劉備配下の部将である関羽が樊と襄陽とを包囲すると、全ソウは上疏をし、関羽の討伐が可能であるとして、その計略を陳べた。孫権は、このときすでに呂蒙と計らって密かに関羽襲撃の策を講じていたので、事がもれるのを心配して、わざと全ソウの上表を握りつぶし、それに対する孫権からの返答はなかった。関羽が捕らえられたあと、公安において祝賀の宴を開いたが、その席上、孫権は特に全ソウに向かって、「あなたが前にこのことを上陳してきたとき、私はそれに対する返答をしなかったのであるが、今日の勝利はあなたの手柄でもあるのだ」といった。こうしたことで、全ソウは陽華亭侯に封ぜられた。
222年、魏は水軍を動かし大挙して洞口へ兵を進めてきた。孫権は呂範に命じ、部将たちを指揮して魏の進出を防がせ、多くの軍営が近接して設けられた。敵方がしばしば船足の速い舟によって略奪をしかけてくるため、全ソウはつねに武装をして、警戒を怠ることがなかった。そうするうちに、敵方が数千人を動かして長江中央の中洲へ軍を進めてきたところを、全ソウは攻撃を加えて打ち破り、敵の将軍の尹盧の首級をあげた。この功績により全ソウは綏南将軍に昇進し、爵位を進めて銭唐侯に封ぜられた。
225年、仮節を授けられ、九江太守の職務を当てられた。
228年、孫権はみずから皖にまで出向くと、全ソウに命じ、輔国将軍の陸遜と協同して曹休に攻撃を加えさせ、曹休の軍を石亭で打ち破った。
このころ丹陽・呉郡・会稽の山越の民たちがふたたび武力蜂起をおこし、これら三郡配下の諸県の役所に攻撃を加えてこれを占拠した。孫権は、これら三郡のうちの辺鄙な地域を分離して東安郡を立て、全ソウをその郡の太守の任務に当てた。全ソウは、郡に赴任すると、賞と罰とを明確に実行し、反乱者たちに対して、降服して支配下に入るようにとの宣伝工作を行った結果、数年の間に一万余人の帰順者を得ることができた。こうした成果を見て、孫権は全ソウを呼び返してふたたびその軍営を牛渚に置かせ、東安郡は廃止された。
229年、衛将軍・左護軍・徐州牧に昇進し、公主(孫魯班)を妻に賜った。
233年、全ソウは、歩兵と騎兵あわせて五万を指揮して六安に軍を進めた。六安に住民たちがみな逃げちってしまうと、部将たちは、兵を分けて派遣し彼らを捕らえたいと申し出た。全ソウは、危険を伴って得るところ失うところが相い半ばし、功を求めて国家に迷惑をかけることになるといって中止させた。
246年、全ソウは、右軍司馬・左軍師に昇進した。
孫権が、珠崖や夷州に軍を送ってそれらの土地を占領しようと企てたとき、全ソウは、異域の土地の風土は毒気を含み、疫病が発生して伝染する恐れがあり、多くの利益を求めることはできないと諌めた。孫権は、この意見をいかなかったので、軍を送って一年経つと、士卒たちの中で疫病のため死ぬ者が九割にも達し、孫権は深くこれを後悔した。
249年、全ソウは死去し、息子の全懌が爵位を継いだ。享年52歳。
全ソウは、主君の信任を受けて重んぜられ、一族の子弟たちもそれぞれに取り立てられ、千金にも値する恩賜を受けたが、そうした後にもおのれを虚しくして立派な人物たちに接することにつとめ、おごり高ぶったような態度を見せることがなかった。
『江表伝』によると、全ソウは、東安郡から呼び返されてもどる途上、銭唐に立ち寄り、祖先の墓に祭を行ったが、その際には、のぼりばたやしるしばた、きぬがさがその旧居あたりを輝かせた。全ソウはまた、町の人々や以前からの知り合い、本家や親戚の者たちを招いて、財物を分かち贈り物を与えたが、その額は何千何万にものぼり、故郷の人々は郷土の誉れだと評判した。
孫権は息子の孫登に出征を命じ、その軍はすでに出発して、安楽にまで陣営を進めていたのであるが、群臣たちの中には誰も太子みずからが出征することを諌めようとする者がいなかった。全ソウは秘かに上表をして、太子を心配してこれを諌めた。孫権は即座にこの意見をいれ、孫登に軍を還すよう命じた。天下を論ずる者たちは、そろって全ソウには国家の重臣としての節義があると評価した。
『呉書』によると、もともと全ソウは、部将として大きな勇気と決断力とを備え、敵に当たり難事に取り組むときには、ふるい立って我が身の安全などは顧みなかった。しかし軍の総指揮に当るようになると、威儀を大切にして慎重に行動を取り、軍を動かすにあたっては、必ず万全の作戦を立てて、小さな利益などを追うことはしなかった。
陳寿の評によると、全ソウのことを時代を背負う才能があったと称えたが、子の悪事(二宮事件)を野放しにし世間からそしられ名誉を失ったとも評した。晩年の全ソウは二宮事件において魯王孫覇の側に加担したため、裴松之には同じく『通語』において魯王派の一員として挙げられた呂岱と共に「論ずる必要も無い悪人」とまで蔑まれている。
徐衆の『異同評』によると、礼の定めに、息子が父親のもとにある間は自分の財産というものではなく、また自分の名義で人に経済的な援助をしたりはしないとあるのは、あくまでも父親を尊んで表に立てるためなのである。ここで全ソウが父親の言いつけをないがしろにして自分勝手に資財を処分し、おのれの評判を取ろうとしたのは、父と子との間の礼をまっとうするものではなかった、と批判している。
裴松之はこれに対し、子路が「正しい道だと聞きましたところ、そのまま実行に移してよろしいでしょうか」と尋ねたとき、孔子は、「父や兄がいるではないか。実行するのは彼らと相談してからだ」と答えている。全ソウがその場の判断で父親の資財を人々に分かち与えたのは、たしかに子としての道にはずれている。しかし士人たちが生命の危機にさらされ、今日明日の生命も知れぬという状態にあったのであるから、情況の重大さと礼の定めとを計りにかけて、他人の急場を救うほうを優先させたのは、ちょうど馮ケンが孟嘗君のためによい評判を買って帰ってきたのや、汲黯が自分の判断で公の倉庫を開いて貧しい人々を救ったような例と同じであって、それを評判を求めるためのものにすぎぬといってしまうのは、彼の本来の気持ちにそむくものではなかろうか、と反論している。
没年は、247年春正月(呉主伝)・249年春正月(全ソウ伝)・249年冬(『建康実録』)とその記述が揺れている。