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蜀漢滅亡

後漢伝


孫韶 公礼そんしょう こうれい

姓名孫韶
公礼
生没年188年 - 241年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評任務を忠実にこなし、洞察力をもって備えた武人
主な関連人物 孫権 孫桓 孫河 
関連年表 220年 揚威将軍となる
229年 鎮北将軍となる

略歴

孫韶、字を公礼という。伯父は孫河、従弟は孫桓、子は孫楷、孫越、孫異、孫奕、孫恢がいる。

孫韶は、年十七で、丹楊で孫河が殺害されたため、孫河の残した兵士たちをとりまとめると、京城の補修工事を行い、ものみやぐらを建て兵器や設備をととのえて、敵の侵攻にそなえた。孫権は、丹楊で変事があったと聞くや、椒丘からとってかえし、丹楊に立ち寄ってその混乱をしずめると、軍を率いて呉へと帰還した。

夜間に京城に着くと、そこに軍営をおいて、ためしに京城に攻撃をかけて驚かせてみた。兵士たちはみな城壁の上に出て檄を伝え警戒態勢をととのえた。その兵士たちが上がる呼び声は大地をどよもし、外に向かって矢も射かけられてきた。孫権が自分であることを分からせて、やっと矢は止んだ。

次の日、孫権は孫韶を引見すると、よく任務を果たしていることを称め、その場で承烈校尉に任じて、孫河のもとにいた部曲たちに統率をまかせ、曲阿と丹徒との二県を封邑として与えて、自分の判断で県の幹部を任用できるなど、すべてかつての孫河の場合と同様の権限を認めた。

のちには広陵太守・偏将軍に任ぜられた。

孫権が呉王となると、揚威将軍に昇進し、建徳候に封ぜられ、孫権が皇帝を称するようになると、鎮北将軍に任ぜられた。

孫韶は、国境守備の部将として幾十年かをつとめたが、兵卒たちの育成に成果を挙げ、彼のためには死をもいとわぬ者たちを養いあげた。つねに最前線での警備態勢をととのえ遠く斥候をはなて敵の情勢を窺うことに努め、敵の動静をすばやくつかんでその備えをなくしたので、戦いに敗れることはめったになく、青州・徐州・汝州・沛などから投降してくる者も少なくなかった。

淮南の地や長江沿いの駐屯軍や偵察部隊は、みなその兵を引き上げて遠征にまわされ、徐水・泗水・長江・淮河の流域で、軍の駐屯しない土地がそれぞれに数百里に及んだ。

孫権が西方の征伐からもどり、都を武昌に定めて以来、孫韶が孫権に目通りせぬことが、十年あまりにもなり、孫権が建業にもどってきて、やっと朝覲することができた。

孫権は、青州や徐州一帯の各駐屯地の守りの固さ、そこまでの距離、兵馬の多寡、魏軍の指揮官の姓名などについて尋ねたが、孫韶はそれらすべてを詳しく知っていて、質問された事柄のすべてに返答をした。

孫権はすっかり気に入り、よろこんでいった、「久しく孫韶どのを見ぬままであったが、思いがけずもかくも立派になられていたのだ。」

孫韶に、幽州の牧の任務を加官し、仮節をたまわった。

241年、孫韶は死去した。息子の孫越がそのあとを嗣ぎ、右将軍にまで昇った。


評価

孫韶は、身の丈が八尺(190センチ強)で、温雅な風貌をそなえていた。

叔父の孫河はもとは呉郡の俞氏の出身で、孫策に気に入られて孫姓を与えられて一族として迎えられた。なお、『呉書』では、元々孫姓だったのが俞氏の養子となったとある。


演義

『三国志演義』では、魏との戦い(224年と225年の二回の広陵侵攻がモデルとなっている)で、総大将の徐盛の作戦に異を唱えて徐盛を怒らせ斬られそうになったところ、それを仲裁した孫権により助けられた。

しかし、孫権に徐盛への謝罪を要求されると、それを拒絶し孫権の怒りをも買った。

無断で魏軍を奇襲しようと単独行動するが、徐盛はそれをも策に利用しようとし、丁奉に命令して孫韶を援助させ、徐盛の偽城の策にかかった魏軍が撤退を始めると、これに対し奇襲を行い、魏軍に対し大打撃を与えることに成功し、徐盛と共に孫権に賞されることになった。