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曹操と劉備の英雄論

後漢伝


孫桓 叔武そんかん しゅくぶ

姓名孫桓
叔武
生没年生没年不詳
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評夷陵の戦いで、劉備を追いつめて称賛された人物
主な関連人物 孫権 陸遜 
関連年表 220年 建武将軍・丹徒侯となる

略歴

孫桓、字を叔武といい、呉郡の人である。父は孫河、兄は孫俊、弟は孫助、孫誼、従兄弟は孫韶がいる。

関羽を華容に討伐した際の作戦に参加し、関羽の余党を説得して五千人を呉に帰順させ、牛や馬や軍用機械などをおびただしく鹵獲した。

年二十五のとき、安東中郎将の職を授けられ、陸遜とともに劉備の侵攻の防禦に当たった。孫桓は、別働隊を率いて夷道に向かったところ、劉備軍の先鋒に包囲された。陸遜に救援を求めたところ、陸遜は既に劉備軍を壊滅させる作戦を用意していたことと、孫桓の兵の士気が高いことと、城は堅固で食糧も豊富であることから、陸遜が作戦を実行に移せば自力で窮地を脱することができるだろうと分析し、援軍をすぐには送らなかった。

劉備の軍勢は圧倒的な勢いを示し、山にみち谷をうずめたのであるが、孫桓は、武器を奮い命を惜しまず、陸遜と力を一つにあわせて戦ったので、劉備は何もできぬまま敗走した。

孫桓は、敗走する劉備を追って城に通じる道を断ち、その道の要所要所を閉鎖した。劉備は、山中をたどり険害をのりこえて、やっとのことで脱出すると、いきどおり嘆息して、「おれがむかし京城に行ったときには、孫桓はまだ小児であったのに、いま私をこんなにまで追いつめよった」といった。

孫桓は、勝利の後に陸遜と対面し、援軍を送らなかった陸遜を恨みに思ったが、劉備軍が壊滅すると当時の陸遜の意図が分かるようになった。

孫桓は、功績を認められて建武将軍を授けられ、丹徒侯に封じられた。

長江を下って牛渚の督となり、横江の砦を築いているとき、思いがけなくも急に死去してしまった。享年不明。


評価

『呉書』によると、風貌が端正で、有能で聡明な頭脳をそなえ、博学で多くのことを知っていて、人との議論や応対に巧みであった。孫権は、つねづね孫桓のことを皇族内の顔淵(孔子の第一の弟子)だと称し、武衛都尉に抜擢した。

死因については、事故死なのか暗殺なのか、一切不明である。


演義

『三国志演義』では、夷陵の戦いのときに登場し、最初に朱然とともに劉備の迎撃の任務を任される。配下に三人の猛将を擁していたが(李異、謝旌、譚雄)彼等はいずれも緒戦で関興と張苞に破られた。その後、陸遜が大都督として出陣し劉備を撃退するまで夷陵城で防戦を続けた。朱然と異なり、戦死はしていない。