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姓名 | 鄧芝 |
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字 | 伯苗 |
生没年 | ? - 251年 |
所属 | 蜀 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 様々な分野で手腕を発揮し、呉との和平交渉を成功させた人物 |
主な関連人物 | 劉備 諸葛亮 劉禅 趙雲 |
関連年表 |
214年 広漢太守・尚書となる 227年 中監軍・揚武将軍となる 234年 前軍師・前将軍となる 243年 車騎将軍・仮節となる |
トウ芝(登におおざと[鄧])、字を伯苗といい、義陽郡新野県の人であり、漢の司徒トウ禹の末裔である。子はトウ良がいる。
後漢末、蜀に入ったが、知遇をうけるまでには至らなかった。当時、益州従事の張裕が人相を見るのがうまかったので、トウ芝は彼に会いに出かけた。張裕はトウ芝に向かって、「君は七十歳を越してから、大将軍の位に達し、侯に封じられるであろう」といった。
トウ芝は巴西太守のホウ羲が士を好むと聞き、出かけて行って彼のもとに身を寄せた。
劉備が益州を平定すると、トウ芝は食糧貯蔵庫の督となった。劉備は出遊の際、郫を訪れ、彼と語り合い、ひじょうに高く評価し、郫の令に抜擢し、広漢太守に昇進させた。それぞれの任地で清潔かつ厳正な態度をとって治績をあげ、中央に入って尚書となった。
劉備が永安で崩御した。これより先、呉王の孫権が和睦を請うたため、劉備は宗偉・費イらを何度も派遣して答礼させた。丞相諸葛亮は、孫権が劉備の死去を聞けばたぶん異心を抱くだろうと深く心配していたが、どうしたらよいかまだ決断しかねていた。トウ芝が諸葛亮に目通りして、「現在、主上は幼くおわし、即位されたばかりです。大使を派遣して呉に友好の意を重ねて伝えるべきかと存じますが」といった。諸葛亮はそれに答え、「わしはずっとそのことを考えていたのだ。適当な人物がみつからなかっただけである。今日はじめてその人をみつけた」といった。トウ芝が、それは誰かと質問すると、諸葛亮は、「つまり使君のことだ」と答えた。
かくてトウ芝を派遣して孫権との友好関係を整えさせた。孫権は案の定ためらって、すぐにはトウ芝と会おうとしなかったので、トウ芝はみずから上表して、孫権に会見を申し入れた。「臣が今度参りましたのは、呉のためにもなることを願っているのでありまして、ただ蜀のためばかりを考えているわけではありません」と述べた。孫権はそこで彼と会い、トウ芝に、「わしはほんとうは蜀と和睦することを希望しているのだが、しかし蜀の君主は幼少であり、国土は小さくじり貧状態だから、魏につけこまれ、安全を保てないことを心配している。それでためらっているのだ」というと、トウ芝は、「呉・蜀二国は四州の地を支配し、大王さまは一世をおおう英雄であられ、諸葛亮もまた一代の傑人でございます。蜀には重なれる峻険の守りがあり、呉には三江の隔てがあります。この二つの長所を合わせて、ともに唇と歯のごとく互いに助けあうならば、進んでは天下の併呑も可能でしょうし、退いては三国鼎立が可能でありまして、それこそ自然の理であります。大王さまが今もし魏に臣従されるならば、魏は、上は大王の入朝を望み、下は太子の宮仕えを要求するにちがいありません。もし命令に従われない場合には、命令をかしこみ反逆者の討伐にやってくるでありましょうし、蜀は必ず流れに乗り好機をはかって進攻するでありましょう。このような状態になれば、江南の地は二度とふたたび大王さまのものではなくなります」孫権はやや久しく沈黙してから、「君のいうとおりだ」といった。
かくてみずから魏との関係を絶ち、蜀と同盟し、張温を派遣して蜀に返礼させた。蜀もまた重ねてトウ芝を派遣した。
孫権はトウ芝に対して、「もしも天下泰平となれば、二人の君主が国を分けて治める、それも愉快ではないか」といった。トウ芝は、「そもそも天に二つの太陽ではなく、地に二人の王はいないものです。魏を併呑した後のことについては、大王さまはまだ天命をよく認識していらっしゃらないようです。君主がそれぞれの徳を盛んにし、臣下がおのおのその忠節を尽くし、将軍がばちと陣太鼓をひっさげて出陣すれば、戦争が始まるだけです」孫権は大笑いして、「君の誠実さからいって、当然の答じゃな」といった。
孫権は諸葛亮に手紙を送って、「以前の使者丁コウはうわついて、陰化は舌足らずであった。二国を和睦させたのは、ひとえにトウ芝のおかげである」と述べた。
諸葛亮は北方の漢中に駐屯した際、トウ芝を中監軍・揚武将軍に任じた。
諸葛亮が亡くなると、前軍師・前将軍に昇進し、エン州刺史を兼任し、揚武亭侯に封じられ、ほどなく督江州となった。孫権はたびたびトウ芝に安否をたずねる手紙を寄せ、丁重な贈物を与えた。
243年、任地で辞令を受けて車騎将軍に昇進し、その後仮節を加えられた。
248年、フ陵国の領民が都尉を殺害して反乱をおこした。トウ芝は軍を率いて征討し、たちまちその頭目をさらし首にしたので、民衆は安定した。
251年、死去した。享年不明。
トウ芝は将軍の位にあること二十有余年、賞罰を明確に下し、兵卒をよくいたわった。自分の用いる衣食はお上の支給にたより、いやしくも質素・倹約など考えもしなかった。しかしながら、まったく利殖を図ろうとしなかったので、妻子は飢えや寒さを免れえず、死んだときには家に少しの財産も残ってなかった。
性格は剛気で細かいことに気を配らず、感情をそのまま表に出したため、士人たちとうまくやってゆくことができなかった。彼が尊敬する当代人は少なかったが、ただ姜維に対してだけは才能を高く評価していた。
陳寿の評によると、トウ芝は堅実貞正、簡潔明瞭な人柄で、職務に当たっては我が家のことを忘れた、評価している。
小説『三国志演義』では孫権が蜀の使者を脅すために置いた熱された大きな釜を罵倒、それに怒った孫権を諭した上で命がけで同盟を結ぶと言い釜に飛び込もうとし、それに驚いた孫権が感服し蜀と再び同盟を結ぶ、という演出がなされている。
『華陽国志』によると、トウ芝はフ陵に遠征した際に、黒色の猿が山沿いに行くのをみつけた。トウ芝は性来、弩が好きだったので、手ずから猿を射ると、命中した。猿はその矢を抜き取り、木の葉を巻いて傷口をふさいだ。トウ芝は、「ああ、わしは生き物の本性にそむいてしまった。まもなく死ぬだろう」といった。一説には次のようにある。トウ芝は猿が子猿を抱いて樹の上にいるのを見つけ、弩をひきしぼり発射したところ、母猿に命中した。その子猿は矢を抜き取り、木の葉で傷口をふさいでやった。トウ芝はそこでため息をついて、弩を水中に投げ込み、自分の死を予知したのであった。