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蜀伝


孟光 孝裕もうこう こうゆう

姓名孟光
孝裕
生没年生没年不詳
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評博識で古代に詳しく、『三史』の研究に注いだ人物
主な関連人物 劉備 劉禅 費禕 郤正 
関連年表 189年 講部吏となる
190年 益州へ逃亡する
215年 議郎となる
223年 符節令・屯騎校尉・長楽少府となる

略歴

孟光、字を孝裕といい、河南郡洛陽県の人である。後漢の大尉孟郁の一族である。

霊帝の末年、講部吏となった。献帝が長安に遷都すると、そのまま蜀へと逃げこんだ。劉焉父子は彼を客礼をもって待遇した。

劉備が益州を平定すると、議郎に任命され、許慈らとともに宮中の制度に当たった。

劉禅が即位すると、符節令・屯騎校尉・長楽少府となり、大司農に昇進した。

246年秋、大赦令が出されたとき、孟光は満座の中で、大将軍費イの責任を追及して、「そもそも恩赦というものは、片手落ちな政策ですから、治まった時代にはあってはならないのです。衰退し行き詰まり、どうしてもやむをえない場合であってはじめて臨時の処置として許されるのです。現在、主上は仁愛深く賢明であられ、百官は職務にふさわしい働きをしております。いったいどのような差し迫った危機や緊急の事態があって、たびたび特別のご恩を施され、よこしまな悪人たちに恵みを与えられるのですか。また鷹やはやぶさが攻撃を始めるように我が国が魏の討伐を始めたとき、罪ある者を赦すとなると、上は自然の時節を犯し、下は人間の道理に反することになりましょう。私は老いさらばえ、政治の本質をわきまえておりませんが、内心この法を長く続けるのは困難があると考えます。民衆の仰ぎを見るりっぱな措置、有徳の人に対して期待する措置といえましょうか」費イはただ彼のほうを見てあやまり恐縮するだけであった。

孟光が人の弱点を指弾するときは、多くこういう具合であったから、政治を司る重臣たちに気に入られず、爵位は昇進しなかった。つねに直言して憚ることがないので、当時の人々から嫌われていた。太常の広漢の譚承、光禄勲の河東の裴儁らが、いずれも孟光より年功が浅かったにもかかわらず、高い位を占め、孟光の上席にあったのは、おそらくこのためであろう。

後進の文士秘書郎の郤正はたびたび孟光のもとに訪れ、学問上の疑義について質問した。孟光は郤正に皇太子劉璿(セン)の学んでいる書物についてたずね、あわせてその性格とこのみについてたずねた。郤正は、「親に仕えては慎み深く、朝から晩まで怠ること無く、古えの世継ぎの風格を具えておいでです。おつきの群臣たちに接するときのおふるまいは仁愛を基としておられます」と答えた。孟光が、「君のいうようなことは、民間でもよくあることだ。わたしがいまたずねたのは、その権謀才智がその程度か知りたいからなのだ」というと、郤正は、「世継ぎの道は、父君のご意志に従い、その楽しみを極めてさしあげることにあります。自分勝手に行為することはできないものです。そのうえ才智は胸のうちに秘めておくものであり、権謀はその時の状況に応じて立てられるものですから、それらの有無を、どうして予測することができましょうか」といった。

孟光は郤正が慎重な態度で適当な言葉を選び、いいかげんな議論をしないことを悟ったので、次のように、「わしは直言を好んで、誰にも遠慮しなかった。つねに欠点を糾弾しては、世の人々から非難と憎しみを受けてきた。君の心を推察してみるに、やはりわしの発言をあまり快く思っていないようだが、しかし言葉にはそれを吐かせる論理があるものだ。現在天下はまだ定まっていないゆえ、英知のはたらきが第一に必要とされる。英知のはたらきは天賦のものとはいえ、やはり努力によって獲得できるものだ。このお世継ぎのご勉学は、われわれにならって博識に努め、他人の質問を待って、ちょうど博士が机の上にある問題紙の中から選びとった出題に答え、それによって爵位を求めるような、そんなことでよいのだろうか。いちばん大切なことに努力されるべきなのだ」郤正は心から孟光の言葉をもっともだと思った。

後に孟光はある事件にひっかかって免官となり、九十余歳で亡くなった。享年不明。


評価

博学で古代の知識に詳しく、あらゆる書物を読破していたが、 もっとも「三史」(「史記」「漢書」「東観漢記」)の研究に意を注ぎ、漢王朝の古い制度に詳しかった。 「公羊春秋」を好み、「左氏春秋」には批判をあびせ、来敏とこの両伝の「春秋」の解釈について優劣を議論すると、いつも孟光はわあわあと大声でまくしたてた。

陳寿の評によると、孟光は博学多識で、一代の学者の一人であった、としている。


見解

ある事件をきっかけに連座して孟光は免官されるとあるが、詳細は不明で記述がない。